日本人移民によって開かれた農村は今もその精神と美しい自然を保っていました。
こんにちは、台北ナビです。
台湾では日本統治時代の1911年から1924年の間、総督府の政策として、当時開発の遅れていた台湾東部(花連・台東)に日本本土から移民を募り、かなりの規模の移民村が幾つも作られました。移民の多くは北海道や北陸、四国の農村から来た人たちで、彼らは石コロだらけの原野を開拓し、用水路を渡らせ、「大和民族模範村」を建てあげました。
中華民国時代になり、ほとんどの日本時代のものは壊され、置き換えられてしまいましたが、その中でも比較的よくその頃の形跡を残している地区があります。現在の花蓮県寿豊郷豊裡村。ここで、当時「豊田村」と呼ばれた開拓村の面影を探してみました。
達人に案内してもらいました
今回、ナビたちに豊田村を案内してくれたのは、民宿を営むアンジー先生。豊田村の歴史や地理にとっても詳しく、いっぱい説明してくれました。
こちらがアンジー先生。元は中学校の国文の先生だったそうです。
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アンジー先生の民宿。花蓮の大自然を思いっきり堪能できます。
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行動派の先生はSUV車をガンガン走らせてナビたちを連れて行ってくれました。
今からちょうど100年前、大正初年に開拓が始まった豊田村。
当時のこの地域は原野だったとか。「その頃、花蓮には原住民や漢民族はいなかったのですか?」というナビの質問に、アンジー先生は、「原住民のアミ族は狩猟や採集を行っていたので、農地の開拓という概念はなく、漢民族は日本時代に農家の小作人として移り住んで来たんです。」とのことでした。
道にあった地図看板。自転車でもあれば小さな遺跡も全部見て回れます。
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さらさらと力強く流れる水は都会の用水路とは全然違います。
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開拓村として発展しただけに、旧豊田村の道はまっすぐ碁盤の目のよう。先生によると、約100mごとに畑をぐるっと囲むように、日本時代から受け継がれた用水路がきれいに整備され、このあたりは水不足になることはないのだそうです。
碧蓮寺―当時は台湾一の参道をもつ神社
現在でも地域住民の心のよりどころです。
石灯籠も当時のまま。
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黒松の大木は、鎮守の森として植えたあった最後の1本だそう。外来種のマツクイムシにやられて枯れてしまったそうですが、この太さにはびっくり。
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長谷川清総督が立てた記念碑。
大正3年に建てられた豊田神社は、太皇神社として開拓村の人たちの心のよりどころでした。毎年の6月5日を大祭の日とし、村人総出で大掃除をしたのだそうです。
今でも境内には、昭和17年に当時の台湾総督が建立した、開村30周年記念の石碑が立派に残っています。
台湾光復(終戦)の翌年(民国35年)に、釈迦牟尼仏と不動明王を併せて祀ることになり、民国36年に「碧蓮寺」という名前になったそうです。その後、民国57年には觀音菩薩、彌勒佛、地母娘娘、天上聖母、五榖先帝などが次々と祀られ、地域住民のあらゆる信仰の中心となりました。
現在でも旧正月はもちろん、それぞれの神様の誕生日などには、多くの人たちが集まって祈願成就を感謝するそうです。
アンジー先生が、「絶対に見る価値がある」と言って案内してくれたのが、狛犬と不動明王。昭和2年に奉納された狛犬は、日本でも見たことのないような個性的な造型です。あまりに斬新なデザインにナビたちもびっくり。有名な芸術家の作でしょうか。でも先生によると、地元の子どもたちは「竹干獅」と呼んでいたのだそう。そういえば前足が竹の節のようですね。
不動明王は、吉安郷の西寧寺附近にあったものを、当時行われていた横断道路工事の安全を願って、このお寺に迎えられたのだそうです。
参道の両側の並木は麵包樹(パンノキ)なんです。珍しいですね。
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寿豐郷の中山路と民權路の交差点に、いまでもしっかり健在です。
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旧豊田神社のもう一つの特徴はその参道の長さ。約1kmほどの参道の先に、現存する唯一の鳥居があります。
ささやかに残る足跡
たびたび花蓮を襲った台風により、現存する日本時代の建物は段々少なくなっていきました。
現在も残る幾つかの建物を訪ねてみました。
豊田村の駐在所だった建物。一時期、資料館として使われていたそうです。
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内部は入れませんでしたが、古い写真が展示してあるのが見えました。
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現在の資料館。日本時代の農家だった建物だそうです。
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資料館の外には豊田村100年の歴史を伝える写真が展示してありました。
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こちらは豊田小学校(現在の豐裡国小)の剣道場だった建物。現在は講堂として使われています。
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屋根瓦と木組みに当時の面影がかすかに偲ばれます。
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今でも開村の歴史を大切にしているこの地区。前身の日本時代の豊田小学校から数えて、今年が開校100年を迎える豐裡国小では、校舎の壁にポスターや昔の写真を展示して子どもたちに、地元の歴史を知らせていました。
先生にご挨拶をして校内を参観させてもらうことに。
とってもかわいい小学校でした。
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休み時間の子どもたち。ナビたちにきちんと挨拶してくれました。
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当時の豊田村にあった4つの部落の名前。
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村の病院は、長く「医生的家」として残っていたそうです。
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後で調べてみたところ、この写真にある「豊田会」というのは日本に引き揚げた方たちと台湾の方たちの交流会のようでした。
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台湾全体で移民村のあったところ。
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ひとしきり校内の資料を見終わった頃、アンジー先生が、「確かここら辺だったはず…」と校門の斜め向かいにある民家の方へ。どんどん奥の私道に入っていきます。何があるのかとついて行って見ると、個人の畑に隠れるように小さな緑地がありました。
壊れた石碑のようなものがいくつか…。
よくみるとなんと日本のお墓です。日本の田舎でみかけるような小規模な墓地だったようです。墓碑名も消えかけていましたが、「日本人が住んでいた確かな足跡だね。」という先生の言葉に、開拓者としてこの地に骨をうずめた日本人のことを思い、自然と手が合わさり冥福を祈ったナビたちでした。
亜熱帯の植物に囲まれて静かに眠るお墓でした。
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すぐ横にあったのは、日本時代から受け継がれたタバコ栽培の名残り。タバコの葉をいぶす煙楼という特別な作りの建物の跡でした。
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台湾玉で栄えた時期
日本人が去った後の豊田村はどうなったのでしょうか。次にアンジー先生が案内してくれたのは、豊田駅を挟んで山側の地区。1軒の台湾玉の加工販売店でした。日本時代にも石綿の鉱脈が発見され、鉱業と農業で栄えた豊田村でしたが、その後は静かな農村に戻りました。
しかし突然、豊田村が台湾でも素晴らしく活気づいた頃がありました。それは1960~70年代(民国50~60年代)です。
近くの荖腦山に素晴らしい玉(ぎょく)の鉱脈が発見され、一躍「豊田玉」としてその名が知れ渡ったのです。台湾玉の代名詞とも言われ、世界的にも有名になり、当時の豊田村は台北の西門町にも引けをとらないくらい玉の売買で栄えたのだとか。
これが台湾玉。今に換算すると50億元くらいの外貨を稼いだそうです。
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これも花蓮特産の玫瑰石(ローズストーン)。台湾玉とともに現在は採掘されていません。
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現在では鉱脈の採掘もなく、昔の採掘品を加工する数軒のお店があるだけですが、中でもこちらは、今でも玉のアクセサリーDIYなどを通して、豊田玉の火を絶やさないように受け継いでいるのだとか。
姜(キョウ)さんは桃園から移民してきた客家人の3代目だそうです。
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これが台湾玉の原石。
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ナビも教えてもらって磨いてみました。
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こんなすてきなアクセサリーになります。
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今の豊田村に生きる人々
50年前の玉のブームも去った旧・豊田村は再び昔のように静かな農村に戻っていました。でもここに住む人たちの開拓精神は失われていませんでした。最後にアンジー先生が案内してくれたのは、有機農園を営む江玉寶さんのビニールハウス。
喜んで案内してくれる江さん。
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台湾の珍しい山ゴーヤも栽培しています。
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虫除けでしょうか。唐辛子も一緒です。
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受粉はミツバチ君が活躍。
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見てください。このりりしいピーマン。
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台湾では希少な百合根も作っています。
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旧豊田村を訪ねてみて、ナビは初めて日本時代の開拓者の様子に、わずかですが触れてみることができました。またその後、台湾の人たちがこの土地でどうやって暮らしてきたかということも学ぶことができました。
エコ民宿を営むアンジー先生、台湾玉を守り続ける姜さん、開拓精神にあふれる若い農民の江さん。
日本と台湾、様々な過去もあり現在もあります。でも台湾の人は今でも日本の人が大好きで、心から接してくれました。
これからもこの絆を大切に、物怖じせずに他の国々の人と向き合っていける日本人でありたいと思った台北ナビでした。
花蓮が大好きなアンジー先生。
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実験が大好きな江さん。新しい技術を開発しては他の農民に伝えています。
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行き方(碧蓮寺までの例です)
台鉄寿豐駅より:タクシーで約10分。
台鉄豐田駅より:徒歩約10分
上記の記事は取材時点の情報を元に作成しています。スポット(お店)の都合や現地事情により、現在とは記事の内容が異なる可能性がありますので、ご了承ください。
記事登録日:2013-05-02