太魯閣の遊び方は、一般的な観光コースをたどるのもよいですが、日本と関係のあった場所を歩くのも興味深いのです
こんにちは、台北ナビです。
太魯閣の歴史は、山地民族タロコ(太魯閣)族の歴史でもあります。その昔彼らは霧社に近いところから、東へ進みました。現在の観光ルートを中央に北と南の3つのルートに分かれます。日本の統治下に入ってから、北と南のタロコ族は花蓮の南への移動を余儀なくされます。彼らは現在のセデック族です。
中央ルートをとったタロコ族は、太平洋につながる立霧(タッキリ)渓に沿って点在し、渓谷をはさんで約100個の集落を形成しました。山地の平らな部分を見つけると部落を形成し、3,4戸の集落も1集落と数えたので、多い時で127集落あったそうです。一番大きな集落は、天祥に作られました。
たとえば原住民最大の人口を誇るアミ族や300人ほどの人口で生粋の血筋の人がほとんどいないというサオ族など、原住民には平地人と結婚することを厭わない民族もいますがタロコ族は他民族との結婚を嫌い、同じ民族で婚姻をします。聞けばルーツが同じといわれるセデック族やタイヤル族にもその傾向があるそうです。彼らは文化伝統も同じで、男女とも幼い頃に額に刺青をし、女性は機織りができるようになってから口元から両あごにかけて刺青、男性は出草(首狩り)が出来るようになってから、あごに刺青を入れました(刺青文化は日本時代に禁止されます)。彼らの民族衣装も似ています。
東西横断道路を過ぎたら、太魯閣国家公園管理処に到着
東西横断道路の入口
今日は太魯閣国家公園管理処の陳淑寶さんのご案内で、日本時代と関連のあるルートをたどってみました。
管理処から、太魯閣の入口である燕子口へ向かいます。
主に車の移動ですが、緑水コースは1時間ほどかけて歩いてみました。
「錐麓古道」について
こんな崖道です
太魯閣で日本の足跡をたどるなら、多くの人が「錐麓古道」を歩くべき、と言います。
「錐麓古道」は全長10.3キロの登山コースで、登山申請が必要。約6時間かけて歩くそうで、その高さと道幅などから、高所恐怖症や心臓病を抱えている人には無理です。
以下は申請ページ、1日60人まで、休日96人までと人数制限があり、1ヶ月前から申請可。
燕子口から見上げると…すっごく遠くに
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「錐麓古道」の橋がありました、壊れているので今は通れません
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この日はあいにく霧で、「錐麓古道」はちょうど霧の中
錐麓古道は、日本時代に警察が原住民を統治するために作った道路で、合歓越嶺道の一部です。渓流から約600mの高さを保ちながら、太魯閣の崖を削って造られていきました(合歡越嶺道自体は、1921年には天祥から卡拉寶部落まで、1935年には観光ルートとして、南投県の霧社まで繋がりました)。大理岩の峡谷は硬く、少しずつ爆破したり、上からロープでぶら下がったりしながら、少しずつ掘り進めていきました。
あとで到着する「緑水地質展示館」には当時の写真が残されています。日本人はテントを張り測量をし、タロコ族は岩を打ったり削ったり、運んだりさせられました。
警察所は、錐麓古道の入口である巴徳岡から断崖、錐麓の3箇所に置かれました。
燕口から巴徳岡に入る吊り橋が望めます。ここには日本人が約20人、タロコ族は10人ほど住んでいたそうで、小学校や衛生所、集会所なども設けられていました。
今から10年ほど前までは、巴徳岡集落のタロコ族のお婆さんが米などの生活必需品を買うために週に1度ほどカゴを担いで橋を渡り往復していたそうです。1938年には大半のタロコ族が日本人に山から下りて生活するように命じられたのですが、そのお婆さんは断固として平地には下りず、巴徳岡集落に住む最後のタロコ族となりました。峡谷を隔てて、向かいには布洛湾という集落がありました。
現在は太魯閣国家公園内にある大同と大理というところにのみ、タロコ族の集落が残っていますが、彼らももう集落には住まず、畑などを耕しに時々平地から戻ってくるとのことです。
ナビは2012年の9月に行ったときには霧もなく、不通になっている九曲洞トンネルの入口付近から、横にまっすぐ続く錐麓古道を見ることができました!
ほら、小さな橋もありました~
緑水歩道を歩く
合流キャンプ場のバス停から出発
緑水歩道も合歓越嶺道の一部を整備した道ですが、「錐麓古道」と違い、2キロ弱だし、1時間ほどで歩けるので、登山歩道散歩コースといえます。
さて、「合流」というところに着きました。ここにはキャンプ場もあります。その昔合歡山から帕托魯山(タロコ語でカエルという意味)を越えて運ばれたヒノキは、ヒノキの集材地だったこのキャンプ場へ運ばれました。ここから運ばれる前に終戦を迎えた後は、国民党が続けてヒノキを伐採。その数は日本時代の数倍もの量になりました。
いいお天気でしたが、湿度は高かったです
太魯閣に来るのに一番いい季節は、3月と11月。3月は新緑がきれいで、11月には紅葉が見られます。坂道を登っていくと、跑馬場というところにつながる道はふさがっていました。ここにも昔タロコ族の合流という名の集落がありました。跑馬場は、日本時代に馬を飼っていたところです。牛も飼っていたそうで、馬は終戦時に連れ去られたけど、牛は放置されたため野生化し、その後山へ入った人が牛に追いかけられたという話しもあったそうです。途中カブトムシが好む「白雞油」という樹木やドングリの木もありました。
さて、ここから下のほうの道へ入ります。
緑水歩道のちょうど中間地点には、「弔霊碑」
ここには、4人の日本人の名前が彫られています。
西田栄造と古沢猪一郎は、大正11年落石事故で亡くなり、秋原一郎(大正5年没)と富尾忠三郎(大正7年没)は、死亡原因不明と書かれています。落石事故の場所はここではなく、もっと渓流に近いところであったため、死者が4人出たところで、ここに碑が建てられたのでは?と考えられています。陳さんの話しによると、1914年(大正3年)に日本軍の制圧により起こった太魯閣事件が起こってから、軍の原住民への押さえつけはますます厳しくなり、その反動で各所で首刈りなどの事件が発生していたとのこと。現在台湾国内で当時の歴史をまとめている人がいるけれど、タロコ族は歴史を口承で言い伝えてきているので、理藩(原住民)政策で、この地へ送られた日本人がどのようにして亡くなったのかは不明な部分も多いとのことです。
タビト!?
これがタビト
タビト(天祥の旧名)の名の由来は、クロツグヤシという植物からきています。葉は家屋の屋根として使用しました。夏には果実、花はいい香りがするそうです。
ここで陳さんの話によると、天祥の日本時代の名はタビトですが、当時日本人がここはどこだ?と聞いたのを、一緒に歩いていたタロコ族の人が周辺に密集しているクロツグヤシの名前を聞いたと思い「ダァビッ」と答えたら、(たぶん同じように発音できなかった)日本人が「おお!ここはタビトというのか!」で、タビトになったんだとか・・・。
陳さん、あ、逃げちゃったわよ~
星鴉(ホシガラス)を発見しましたが、間一髪で撮れず。標高400m以上のところにいました。マツの実が好きだそうです。
日本時代の石畳は精巧!と陳さんが話していました。石畳があったところは集落もありました。
崖道です
歩いていると、到着地の「緑水地質展示館」が向こうに見えました。
この近くにも昔は陀憂恩という集落がありました。
ナビたちはトンネルに入ります。明かりはないですが・・・すぐに出口が見えました!
樟脳の木、日本時代は主要輸出品の1つでしたが、国民党時代になって伐採するのみで継ぎ木をしなくなったため、減少の一途をたどりました。
そして、吊り橋。
ここを渡るともう「緑水地質展示館」に到着です。
緑水地質展示館
ここは、昔陀容という集落があったところです。1986年に太魯閣国家公園管理処が設立したのはここでした。内部には日本時代からの貴重な写真などが展示してあるので、ぜひご参観ください。下の階はツアーの休憩所にもなっていて、お天気がいい日はここでひと息。
天祥
文天祥公園から見た天祥
ここは、タビト(塔比多)集落と呼ばれる一番大きな集落があったところで、日本人はテニスコート、小学校、雑貨や、宿泊所、集会所、食事処、飲み屋なども作りました。現在太魯閣観光ツアーの終点地となっていて、レストランやショップがあります。
文天祥公園
今は「正気の歌」を詠んだ文天祥という台湾に来たことのない軍人の銅像が置かれていますが、ここはかつて佐久間神社がありました。台湾での任期が一番長かった第五代総督佐久間左馬太が祀られた神社で、彼の死後1923年に建立しました。
各地で起こった原住民事件を平定した佐久間総督は、タロコ族に憎まれつつも恐れられ、尊重されていたそうで、タロコ族の中には、サクマの名を子供につける人もいたそうです。
緑水合流歩道
花蓮県秀林郷 電話:(03)862-1100~6
行き方:鉄道で「新城駅」下車、レンタカーで。.鉄道で「花蓮駅」下車、花蓮客運バス(花蓮新駅―天祥)に乗り換え、「緑水バス停」下車。
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記事登録日:2015-04-05