「台湾」に興味を持つことがあったら、一番最初に知っておかなければいけない方です
こんにちは、台北ナビです。
台湾を初めて訪れた日本人観光客の皆さんが、その印象を「懐かしい」と形容することをよく耳にします。台北生活7年目で、かなり慣れてきたつもりのナビも、経済的には日本に準じるほどの規模ながら、どこか懐かしい街並み、人懐っこい、ちょっとおせっかいな台湾の人々に接するたびに、東京の生活ではあまり触れられなかった「人情」というものを感じざるを得ません。
そして、台湾を形容するときによく使われるのが「世界一の親日国」というフレーズ。東日本大震災で200億円を超える義援金が寄せられ、その親日ぶりに注目が集まったのを覚えている方も多いと思います。台北の街を歩いていても、看板には日本語があふれ、デパートには日本の商品が所狭しと並び、最近では日本のラーメン店の出店ラッシュに湧いています。これほどまでに「日本」があふれる台湾ですが、その源はどこにあるのでしょうか。
1895年から1945年まで50年にわたる日本統治時代を経験した台湾には、当時の日本教育を受けた人々がいます。戦後70年近くが経過し、その数は年々減少していますが、日本の統治時代を懐かしみ、歴史の光と陰を公平に評価してくれるこの世代の人々が、現在の台湾の親日ぶりを作り上げてきたと言っても過言ではないでしょう。彼らの存在こそが、国交のない台湾と日本の間の密接な関係を維持してきた原動力と言っても過言ではありません。
そして日本と台湾の密接な友好関係を築き上げてきた代表的人物が今日ご紹介する李登輝・元台湾総統なのです。李登輝元総統の名前は日本でもよく知られています。「日本語が話せる」「日本教育を受けている」「武士道や日本精神を評価」など、李登輝元総統を語るうえで日本抜きにはできません。まずはその横顔をご紹介しましょう。
李登輝元総統は1923年(大正12年)に台北北部の三芝で生まれました。観光スポットにもなっている淡水の老街から車で30分ほど北へ向かったところです。生家は現在も保存されており、観光スポットにもなっています。李元総統が生まれたとき、すでに台湾は日本の統治時代を30年近く経験していました。
幼い頃から日本教育に親しみ、高校は当時、台湾一の名門校、台北高等学校に進学します。台北高等学校は現在の国立台湾師範大学。今もキャンパス内に残されている講堂など建物の一部は当時の台北高校時代のものです。高校時代、読み漁った文学や哲学の岩波文庫は700冊にも及ぶそうです。この当時、身につけた教養や知識が、その後の人生に大きな影響を与えたとご自身も語っています。実際、当時は欧米のあらゆる書籍が日本語に訳されており、日本教育を受けた台湾の人々がこうした著作に触れることが出来たことは間違いないでしょう。
李元総統は戦火が激しくなり始めた1943年に、台北高校を繰り上げ卒業。この当時は、日本名の「岩里政男」を名乗っていました。そして、京都帝国大学に内地進学し、農業経済を学ぶことになります。なぜ農業経済を選んだのでしょうか。もともと、歴史が大好きだった李元総統は高校の歴史の先生になりたいと考えていました。しかし、当時の統治政策では、台湾人が高校の教師になることは不可能でした。ここに、日本の台湾統治に差別が存在したことは否定出来ません。そこで李元総統は、当時「新天地」と謳われた満州へ行き、満鉄調査部にでも入って仕事をしようと考え、農業経済を選択したということです。また、李家は地元では裕福な家系だったため、小作料を納めに来る農民の過酷さを幼い頃から目にしていたことから、「貧しい農民の暮らしを助けてあげたい」と思ったことも農業経済を選択した一因だとも話されています。
京都帝大へ進学した李元総統ですが、戦争の激化により、学業どころではなくなり、学徒動員で帝国陸軍少尉として入隊します。結局1945年の敗戦を名古屋で迎え、戦後台湾に戻ることになります。
戦後、国立台湾大学へ編入した李元総統ですが、この頃から台湾は国民党による言論統制や戒厳令による時代が始まります。誰もが政治と距離を置き、細心の注意を払って日々の暮らしを送っていた時代、李元総統も例外ではありません。台湾大学卒業後、助手として台大に就職。その頃、同じ淡水出身の曽文恵夫人と結婚しています。曽文恵夫人も日本語を自由自在に操り、和歌を詠むのが趣味という典型的な「日本語族」でもあります。
その後、アメリカのアイオワ州立大学で修士号を取得。台湾に戻り、農村の復興を助ける政府組織で働き、再びアメリカのコーネル大学へ留学。博士号を取得した李元総統を待っていたのは台湾大学教授の椅子でした。
そんな彼に目をつけたのが当時の蒋経国総統。疲弊する台湾農業の抜本的な改革のため、優秀な人材を探していた蒋経国総統の目に止まったのです。ここで初めて李元総統は政府の政務委員として政治の世界に足を踏み入れます。
その後、台北市長、台湾省主席、副総統を歴任し、1988年には蒋経国総統の死去により総統に就任します。戦後、長く暗い時代が続いていた台湾も激変の時を迎えており、38年間の戒厳令が解除され、言論の自由が保証されたことで、民主化を求める民衆の声がにわかに高まってきていた時期のことでした。
総統就任後は、一歩ずつ堅実に、台湾の民主化の基礎を形作っていきます。当時の台湾はまだ「国共内戦が続いている」という建前であったため、国会議員の改選が行われていませんでした。そこで、国会議員を改選し、総統の選挙も直接選挙に改めました。また、政党も、野党の結成禁止という国民党独裁だったものを解禁し、政治の自由度を高めました。こうして言論の自由も確立され、政党間の競争も自由となり、ついに2000年には李総統の退任と同時に、台湾では初めての政権交代が実現することになります。一滴の血を流すこともなく、内乱を起こすこともなく、完全に平和的な方法で民主的な台湾社会を作り上げた李元総統が「台湾民主化の父」と呼ばれるのはこの12年間の総統在任中に成し遂げた数々の政策の結果によるものです。
こうした「台湾民主化の父」という功績のみならず、なぜ李元総統がこれほどまでに日本で人気を博し、李元総統自身も日本を評価しているのでしょうか。それは李元総統自身が「自分が台湾の民主化を成し遂げる原動力となったのは日本教育、そして日本精神のおかげだ」と明言しているからにほかなりません。李元総統は日本こそがアジアのリーダーになるべきふさわしい国として評価する一方、政治的にも経済的にも国際的な競争力や発言力を失っている日本を叱咤激励することも忘れていません。
「東日本大震災で見せた日本人の整然とした姿、秩序を守る姿の根底にあるのは日本人が持つ高い精神性と文化によるもの」「いくたびもの天災や戦争による惨禍を乗り越えてきた勤勉な日本人ならば、必ずや復興をなしとげることができると信じている」と、地震で傷ついた日本人にメディアを通じて呼びかけています。
ただ、残念なことに、これだけ多くの観光客がお互いに往来し、経済的にも地理的にも、歴史的にも密接な関係を持っている日本と台湾の間には国交がありません。第二次世界大戦後のサンフランシスコ講和条約で、日本は「台湾を放棄する」としたまま、台湾をどこに返還するか、台湾がどこに帰属するかについて全く言及しなかったからです。中国が台湾の領有を主張していますが、日本政府はそれを認めていないこともあり、台湾は現在、独立した国家でなく、中国の一部分でもないという宙ぶらりんな状態といえるでしょう。
このような、一方では非常に密接で、その一方では国交が存在しないといういびつな状態の日台関係ですが、こうした状況を改善すると同時に、これまで維持されてきた良好な日台関係をさらに盛り上げていこうということを主旨として成立したのが「日本李登輝友の会」です。日本李登輝友の会は、単なる李登輝元総統のファンクラブではなく、密接な日台関係の象徴として李登輝元総統の名前を冠し、日台関に横たわる様々な問題提起や勉強会、講演会、文化セミナーなどを主催する団体です。その代表が「日本李登輝学校台湾研修団」。原則として年に2回、春と秋に開催され、台湾を訪れ、日台関係に関する講義を受けたり、日本と関係の深い場所を訪問して野外研修を行うなど、毎回多彩なプログラムが用意されています。
座学を担当する講師には、駐日大使にあたる駐日代表経験者や学者、社会運動家、実業家、作家など、各界から様々な顔ぶれを招いていますが、いずれも日本語が堪能な講師陣なので、言葉の問題は心配ありません。また、日本をよく理解している講師ばかりなので、日台間に横たわる問題が何なのかを把握しており、より一層日台関係への理解が深まることになるでしょう。
文化的な活動がメインといえる日本李登輝友の会ですが、日台関係の改善のために署名運動なども展開しています。一昨年前まで日本に居住する外国人は「外国人登録証」を所持していましたが、台湾人の場合、その国籍欄に「中国」と記載されていました。そこで、日本李登輝友の会が率先して署名運動を展開したり、陳情などを繰り返した結果、法改正により台湾人の国籍欄が「台湾」と記載されることになったのです。この成果については、李登輝元総統自身も様々な場所で言及しています。日本李登輝友の会の紹介や入会方法については、会のホームページを参考にしてください(http://www.ritouki.jp/)。
今年90歳を迎えてもまだまだお元気な李登輝元総統。総統退任後も計5回の訪日を果たし、日本のファンたちを喜ばせてくれました。台湾でも地方視察などに出かけると、写真撮影や握手を求められ、根強い「台湾民主化の父」の人気を感じさせます。
李登輝元総統に関する書物は日本でも多く出版されており、その人生哲学や民主化の顛末を読むことができます。有名な作家、司馬遼太郎氏も『街道をゆく 台湾紀行』で李登輝元総統の手腕を高く評価しました。また、李登輝元総統自身の著作として『台湾の主張』や『最高指導者の条件』『日台心と心の絆』などを読むことで、偉大な人物の片鱗に触れることができるでしょう。
良好な日台関係を象徴する人物として真っ先に名前の挙がる李登輝元総統。これからもお元気で日台の友好のために活躍していただきたいものです。
以上、台北ナビでした。
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記事登録日:2013-07-15