台湾東部の旧移民村・豊田村にやってきました
こんにちは、台北ナビです。
花蓮県の寿豊郷には、その昔日本人の移民村がありました。森本、大平、山下の3つの集落で構成されていた豊田村です。吉野村の開村後、豊田村、林田村、上大和村、三笠村と花蓮には次々と日本人移民村ができました。
花蓮・台東の日本移民村(1899年-1945年)
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吉野村が最大で300戸以上あったことから、吉野村が最初の移民村といわれていますが、実は1899年に、民間で移民を募った賀田金三郎率いる賀田組の賀田移民村が一番最初でした。賀田移民村は、花蓮県の寿豊郷に日本各地からの移民で構成され、後にいくつかの村と合併し壽村になり、戦後は寿豊郷の元に置かれました。
豊田村に到着
1913年(大正2年)、豊田村には約180戸、900人余りの日本人移民が住んでいました。
かつての豊田村は現在、豊山村と豊裡村、豊坪村に分かれていますが、吉野村や林田村と同じで、地元民には「豊田」で通じます。
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豊田警察派出所
豊田移民村の碑があるところは、かつての警察派出所で、建物の内部には当時の写真などが残されています。
現在は、「壽豊郷文史館」になっています。
豊田小学校(現:豊裡小学校)
この日は、日本からのツアー客を乗せたバスがここに到着していました。日本には豊田生まれの方たちが結成した「豊田会」があり、2年に1回くらいの割合で故郷を訪れているそうです。もしかしたら?それならばちょっとお話を伺いたかった~、と後で思ったナビでした。
警察の前に小学校
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当時の小学校の卒業写真が文史館内にあります
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広島式煙楼(廣島菸樓)
当時は稲作以外にサツマイモや豆、タバコの栽培を行っていました。特にタバコ栽培は、花蓮の土壌がアメリカの黄色煙葉という種類のタバコの栽培に合っていたそうで、後に新種改良にも成功し、タバコ栽培は貴重な収入源の一つになりました。「菸樓」というのは、タバコ葉を燻して乾燥させ、保存していた場所で、広島式は屋根に直接通気口が設けられていた形のことを言い、2015年現在、移民墓地の横にただひとつだけ残っています。大阪式は、通気用としての太子楼と呼ばれる凸型の屋根が特徴で、豊田村以外に林田村にも多く残っています。当時は菸樓をいくつ持っているかで、その家の裕福さをはかったそうです。
移民墓地
お墓が見えますか?
豊田村の旧森本集落には、当時の日本人移民のお墓が残されています。細い路地を入ったところに広島式煙楼と言われるタバコ農家の建物跡地があり、その前方には畑が広がり、そのまた前方に日本人墓地がありました。墓石のいくつかは台風などで壊れたのか、穴があるけど墓石がないところ、或いは最初からお金がなくて途中までしか造れなかったのか、完全なお墓は3つしかありませんでした。が、この一帯は草抜きなどの手入れがされていて歩くのには不便がなく、また、残っている墓の位置からすると、かつてはたくさんの墓があったのでは?と見受けられました。1917年に大きな台風があり、その後伝染病が蔓延。住民の多くが亡くなったそうです。
豊田神社(碧蓮寺)
文史館にあった当時の神社の写真
神社の面影は、参道の入口の鳥居と神社入り口の鳥居や灯篭、狛犬にあります。
ここには開村30周年記念の碑があり、境内には井戸も残されていました。
現在の豊田村
豊田移民村には、他にも日本家屋跡、医者の家(かつての医療所)、小学校剣道館、校長官舎、大阪式煙楼などが残っています。日本人が去った後、現在は住民の多くが客家人で、4分の1ほどが台湾人、外省人、原住民のアミ族です。外省人は1950年代にベトナムへ戦争に赴き、フランス軍に捕らわれ接収された中国人たちで、アミ族は1980年代、豊田産の高品質な台湾玉が有名になって移住してきました。
以上、台北ナビでした。