2011年5月8日、烏山頭ダムを建設した八田與一技師の記念公園がオープンしました!
烏山頭を望む八田與一氏の銅像
こんにちは、台北ナビです。
八田與一…今まで台北ナビでも烏山頭ダムや八田技師を記念した映画など、記事として数回取り上げてきました。
八田技師は、台湾では中学校の歴史教科書『認識台湾』にも掲載され、子供からお年寄りまで、最も尊敬される日本人として知られています。彼の功績は、戦前台湾の農業用水施設としてのダムや関連施設を建設したことにあり、中でも最大の偉業は、台南の烏山頭水庫(ダム)と嘉南用水路です。このダムと水路の建設のおかげで、台湾最大の穀倉地帯が生まれました。そのため、土地の人は八田技師に感謝し、銅像や記念館を同地に造りました。そして、毎年彼の命日5月8日には追悼式をあげ、日本からは八田技師のご遺族や関係者の方々、台湾全土からも多くの方が参列してきました。
今年2011年5月8日、紀念園区のオープン日は、八田技師没後69年目の命日に合わせました。馬総統も出席し、多くの方々がこの地に集います。
今回復元に携わった建築家掘込憲二氏
このように、台湾の人たちにとって、「八田與一」は特別な存在なんですが、日本人で八田技師を知る人は、台湾関係者か土木建築関係者ぐらいのようです。台湾に観光へ来る日本人10人に聞いても、果たしてうち何人の方が彼のこと、彼の功績を知っているのでしょうか?
かくゆうナビも台湾へ来る前は八田技師のことは全く知りませんでした。お恥ずかしいことに、台湾へ来て数年後やっと知ることができました。
台湾人に敬愛されている「八田與一」、知れば知るほど同じ日本人として誇りに思えてきます。
八田與一について
ここで、やはりあまり知らない方へ、「八田與一」を簡単にご紹介します。彼は1886年、金沢市生まれ、東大土木工学学科を卒業後、24歳の時(1910年)、台湾総督府内務局土木課の技手として、この地に来ました。28歳からは水利事業を担当、桃園の水利事業以降は設計の第一人者となり、56歳で亡くなるまで台湾に住み、台湾のために尽くしたのです。
八田技師は、人情味のある現場責任者として農民に慕われました。彼は、大工事となる烏山頭ダムに携わる人たちが、安心していい仕事ができるようにと、家族を含め1000人にもなるダム建設関係者住宅区を形成しました。工事関係の施設はもちろんのこと、家族全員が住める宿舎や共同浴場、商店や娯楽施設(テニスコートや広場、映画館)、学校や医療所も作ったのです。
今回復元された「八田與一記念公園」は、その住宅区の中で、八田技師と所長や主任などの主要関係者が住んでいた4棟の日本式家屋の部分です。
当初は干ばつと水害の繰り返しで食物が一切収穫できなかった嘉南平原が、八田技師が建設したダムと16000キロにおよぶ網の目のような用水路のおかげで、台湾最大の穀倉地帯に生まれ変わりました。高鉄(新幹線)や台鉄の列車の窓から外を望むと、青々とした田んぼが一面に広がっているのが見え、農業王国台南を目の当たりにすることができます。
嘉南平原の隅々にまで潅漑用水が行き渡った後、八田與一は家族とともに台北へ向かいました。しかし、当時太平洋戦争の真っただ中。八田技師も、1942年陸軍に徴用されました。乗った船がフィリピンに向かう途中、アメリカの潜水艦に撃沈されて、この世を去りました。その後、八田技師の妻外代樹(とよき)は、夫が建設した烏山頭ダムの放水口の身を投げて後を追いました。台湾の人の胸を打つのは、彼の功績はもちろんですが、夫婦の絆の固さもあるようです。
昭和21年12月15日、嘉南の農民たちによって八田與一夫妻の墓がその地に建てられました。放水口のすぐ近くにある「八田與一紀念室」は2001年に完成したもの。
どのようにして復元されたか?
郭さんと堀込さんご夫妻
今回の復元に最初から最後まで携わってきた、台湾を代表する女性環境建築家の郭中端先生とご主人建築史家・建築理論家の堀込憲二先生のご夫妻が、今回取材陣の質問に答えてくださいました。郭さんは現在中冶環境造形顧問有限公司の代表でもあり、堀込さんは、台湾の中原大建築学科の副教授を務めておられ、これまでにもいくつかの台湾の古い建物の修復や復元を成功させています。
お2人は、この記念区の建設のために、数回金沢市を訪れたそうで、金沢では、今町の八田技師生家や金沢ふるさと偉人館を訪問。技師ゆかりの地を訪ねて資料収集を行い、2年の歳月をかけて、この日の完成にこぎつけたというわけです。室内の様子を聞き取って設計に反映させるため、愛知県で技師のご遺族の方とも会いました。
八田技師の宿舎は、広さ約165平方メートルで、木造平屋建ての日本家屋。内部には技師一家の生活が感じられる品物を展示し、他の3軒の官舎も往時の雰囲気を取り戻しました。
紀念園区予想図
烏山頭職員宿舍略圖
当時の住宅区エリアの図面
建物の状況:文献によると、烏山頭の職員宿舍が完成したときには、一棟式、2棟式、4棟、8棟の形の宿舎が全部で68棟ありました。全部で234戸になります。1世帯4人として、当時このエリアには数千人の人が生活していました。
宿舍を復元するのに役立った古い写真です。八田夫婦子供たちの写真。子供は8人いました
四棟日式宿舍模型図
「八田與一記念公園」の建設は、台湾に多大の貢献をした八田與一技師個人にだけでなく、八田夫婦の愛情の記念という意味も込められています。
八田與一氏の旧居群である4棟の日本式木造家屋は、純日本スタイルの家屋のため、八田技師の旧居に関しては、3名の日本人職人を招き、再建に参加してもらいました。4棟の日本式木造家屋には合計1万5千個の木材が使用されており、中でも八田技師の旧居には約4千個の台湾ヒノキが使用されているとのことです。このヒノキを探すには多大な労力を要したとのことで、設計士たちは百年前の木造家屋を再現するため、古い建材を探しに日本まで訪れたということです。
また、公園内の家具は、「北国新聞社と仰慕八田技師夫妻及台灣友好會」が共同で、日本各地から集め、タンスは21組、小物は163点もの骨董品が集まりました。
メインの四連棟
4月19日は、まだ工事中でした
田中・市川宅(1号館):
2つの家族が住んでいたので、日本式家屋が2棟くっついた形になっていて、入口も2つあります。ここには、当時機械方面を担当していた市川勝次技師と田中義一技師が隣同志で住んでいました。戦後日本が引き揚げてからは、台湾水利会課長の宿舎となりました。
書斎は別荘のよう
八田宅(2号館):
この建物は一戸建ての日本式建築ですが、門構えや向かって左側のところなどは洋館のようにも見えます。建物に向かって一番左は八田技師の書斎だったところで、天井が高く取られています。常に洋服を着て(が、奥様の外代樹さんは大体着物)、アメリカにも赴いたことのある八田技師は、ハイカラな部分を持っていたようです。
入口もおしゃれな洋館風
家の裏には、池のある庭があり、池の中央付近には、石の灯かり燈籠が置かれていました。今回の修復工事にあたって、八田家があったところは全く何も残っておらず、かろうじて残っていたのがこの灯かり燈籠の土台だったそうです。上部はなぜか1号館となっている田中・市川宅に移動させられていたのを探してきて、また土台の上に置いたそうです。
池は掘り起こすに従って、当時の池のふちの石が姿を見せてきました。細部に当たっては、当時の写真などを元に郭さんと堀込さんが日本へ赴き、ご遺族に会って聞いた内容から復元したそうです。八田技師は、花が好きだったそうで、来客が来たときは花がきれいに咲いた自慢の庭へ案内しました。植物はほとんどが亜熱帯のものなので、日本と台湾がきれいに融合した庭園だったことが思い浮かばれます。
3分の2は、和風です
赤堀宅(3号館):
やはり一戸建ての日本式建築で、当時機械係長だった藏成信一氏の住居として使用されました。その後烏山頭出張所の所長を務めた赤堀信一氏が入居してきます。赤堀技師の長女綾子さんは、後に八田技師の長男晃夫さんに嫁ぎました。年の差が16歳と八田技師夫婦と同じくらい離れていたため、綾子さんは現在もお元気で日本に在住しており、今回復元工事をするにあたって、当時のことを知る方として多くの証言を提言されました。赤堀宅の特徴は、4棟の中で以前使用していた木材を一番多く再利用しているところにあります。柱や床、窓枠などにも以前の木材を発見することができます。また、赤堀技師は、家畜を飼うのが好きだったそうで、家の裏庭では、豚や鶏、ヘビなども飼っていました。復元された建物では、そこまで設けられていませんが、あれば楽しいでしょうね。
阿部宅(4号館):
日本式家屋で、当時は堰堤係長であった阿部貞壽氏が住んでいました。阿部氏は後に八田技師の職位を継ぐことになります。阿部氏が離れた後は、この建物は倶楽部として使用されました。当時の倶楽部は招待所の役割も兼ねていたため、宿泊者は食事の提供も受けることができました。また、戦争初期には独身者の宿舎としても使用されました。そのため室内の空間は和式ながら応接間もあったので、洋風の建築様式も取り入れています。
再び!八田與一技師の歴史的意義と文化遺産!
100年前の嘉南平原は、不毛の地でした。干し上がった土地に伝染病が蔓延することもありました。劣悪な環境に、天災も多く、豪雨洪水でせっかくの稲も実らず農民の生活は貧窮そのものだったのです。1930年、烏山頭水庫と嘉南大圳が完成したとき、今までの田畑は豊饒の地へと生まれ変わり、農民は歓喜の叫びを上げました。今まで1年に1度の稲さえ実らなかった土地が、二期作、三期作さえ可能となり、白米以外にサトウキビや野菜も収穫できるようになりました。台湾最大の米どころとなった嘉南平原。この発展は、台湾近年の経済や文化の発展にも大きな影響を与えたのです。
烏山頭ダムと嘉南大圳の2つの建設は、八田技師自身の黄金期でもあったと言われています。八田與一技師は56歳でこの世を去りましたが、56年の生涯のうち、32年をこの烏山頭の仕事にささげたのです。東南アジアで最大、世界でも3番目と言われる「半水力填築式」を利用したこのダムは、当時熱血漢の技師がここにいたという証明でもあります。
日本統治時代、日本人は多くの建設の基礎を台湾に築きましたが、多くの場所で、日本人と台湾人の差別があったのも事実です。八田技師がこれほど台湾人に慕われ、尊敬される理由の一つとして、国籍云々に関わらず、皆と平等に接したということがあります。才能がある台湾人は、重要なポストにも抜擢したので、建設に携わるすべての者が一つの目標に向かって勇往邁進できました。大工事を何年もかけて行うには、それに関わる者たちが互いに協力し合うことによってこそ、良い結果が成し遂げられるのです。職員たちの住居以外に、公共の施設を整えたのもそのためだと言われています。
台南市の烏山頭ダムを含む西拉雅(シラヤ)地方は、観光だけではなく、歴史や産業面からも多くの人たちを魅了する地方なのです。台北観光が終わったら、ぜひ台南まで足を運びましょう!台湾をもっと深く知る旅になることでしょう!
取材協力&資料提供:西拉雅國家風景區