台湾では美しい日本語を守りながら、歌を詠む会があるのをご存知ですか?
こんにちは、台北ナビです。
台湾は多くの人がリピーターとして来たくなる国です。その理由の一つとしてあげられるのが、台湾の人たちの人情の厚さ。ナビたちも取材で外を歩く時、こっちかなここどこかななどと日本語を話しながら歩いていると、困ってるな、道を教えてあげようかなとこちらを注視している台湾の人がいるのに気づきます。中南部に行くとその人情味はもっと濃くなり、日本に無くなってしまった多くのものを、台湾で発見する人もいるでしょう。日本にいつも寄り添ってくれているそんな温かい心を持っている台湾。去年の東日本大震災で、その気持ちは十分伝わってきました。
ナビは台湾には長いのですが、まだまだ知らないことがたくさんあります。台湾は、九州ほどの大きさしかない国ですが、台湾語をもつ本省人、中国大陸から来た北京語が基盤の外省人、客家語を話す客家人、現在14民族と認定されている原住民が暮らしています。日本統治時代に高砂族と呼ばれていた勇敢な原住民たちは、互いの共通語として日本語を用いましたが、年配の方にはそれがまだ通用しています。民族の多種は、言語や文化風習の多様性につながります。
台湾に住むと年月とともに目に見えるものや食べるものの名前や表面上の知識は増えていきますが、その文化や背景を知れば知るほど、もっとその先があったのかと好奇心と探究心は深まるばかりのナビです。
世界中どこを探しても、台湾ほど日本語が高い頻度で通じる外国はないでしょう。台湾でいう当時の日本時代に高い教育を受けた方たちは、美しい日本語を今でも日常生活の中で使用しています。台湾へ旅行に来た人たちも、街中で上品なご年配の方が日本語を話しているのを耳にすることがあるでしょう。ナビは以前から、台湾には、短歌を愛する人たちが集う「台湾歌壇」という会があるというのを聞いていました。ある食事会で蔡焜燦さんとお会いし、お誘いを受けたのがきっかけで、この美しい日本語の世界へいざなわれたのです。
台湾歌壇の由来
●1966年2月、台湾歌壇の創始者である医学博士の呉建堂先生が、第一歌集「ステトと共に」を出し、翌年8月に台北短歌研究会が発足。
●9月に、日本武道館で挙行された国際親善大会に呉建堂氏が参加。当時皇太子、皇太子妃両殿下がご臨席。台湾の短歌の纒まったものが出来たら読んでいただきたいと申し上げ、妃殿下から「期待しています」というお言葉をいただく。
●11月、台北市西寧飯店3階にて、11名が集う。
●1968年1月、「台湾歌壇」第一輯発行。出詠者14名。
●1993年1月「台湾万葉集」下巻完成、上、中、下まとめて宮内庁を通じて、「皇后陛下」に献上。
●1993年5月から朝日新聞の「折々のうた」欄で、大岡信先生が「台湾万葉集」の短歌をシリーズでとりあげる。●1994年、「折々のうた」がきっかけとなり、集英社から日本版「台湾万葉集」が出版される。NHKが「台湾万葉集」の番組を放映。
●1995年、「台湾万葉集」続編が出版される。山口県下松市米泉湖の文学碑プロムナードに孤蓬萬里の歌碑が建立される。
●1996年1月、宮中歌会始に外国人傍聴者として招待される。同年12月、菊池寛賞受賞。
●1997年1月18日、「台北歌壇」創立30周年祝賀会挙行。同年9月、台湾万葉集完結篇「孤蓬萬里半世紀」出版。
●1998年12月15日、呉建堂(孤蓬萬里)氏、死去。
●2003年12月、「台北歌壇」から「台湾歌壇」に改名、現在に至るまで台湾歌壇誌は、153集(2012年初)発行されています。
蔡焜燦さん
2008年から「台湾歌壇」の代表である蔡焜燦氏。
「台湾人と日本精神」(小学館文庫)という著書で、ご存じの日本人も多いでしょう。2010年から李登輝民主協会の理事長も務めておられます。台湾をよく知る日本人なら蔡氏のことを知らない人はいないといってもよいほどの有名な方です。
とはいえ、ナビからみた蔡焜燦さんは、記憶力抜群の好々爺でもあります。
ナビと蔡焜燦さんを引き合わせ、「台湾歌壇」入会へのきっかけをつくってくれたのは、河添恵子さんというドキュメンタリー作家。彼女のブログはこちらから。
会員の方をご紹介します
林百合さん 88歳(大正13年生まれ)
いつもすてきな歌を詠み、ナビ憧れの林百合さん。とってもおしゃれでもあります。「台湾歌壇」に入会されたのは、2004年。台湾南部のご出身で、「屏東高女」を卒業後、当時の状況から篤志看護助手として、負傷した日本兵の治療をする香港陸軍病院へ派遣されました。林さんは主に事務仕事でしたが、他の同僚は死人の片づけなどもしたそうです。当時自分は日本人だと思って、天皇のためと思って働いていましたが、何かあるとチャンコロなどとと罵る日本兵もいたそうです。台湾からは、5州(台北州、高雄州と当時は州でした)20人ずつ、計100人、裕福な家庭で優秀な女子が選ばれ派遣されました。辛いことも多かったのですが、当時同じ身分で本土から来ていた看護師さんとは未だに交流があるそうです。2年後、林さんは台湾へ戻り結婚。船舶エンジンの修理工場を経営するご主人との間に4男1女をもうけました。子供さんたちは皆医者や学者として成功し、今では、曾孫も1人いるのよ、と言う林さん。短歌新聞社から『玉欄かおる』という歌集も出されていて、家族や身の回りのこと、旅行先のことなど、林さんの毎日には歌があふれています。歌集の中にナビが好きな歌はありすぎますが、その中からいくつかご紹介します。
★ 白蓮の一輪咲きて星のごと浮き葉に立ちて小池華やぐ
林さんが自然を詠うと、詠む者にいつもきれいな情景を浮かばせてくれます。
★湯上りのつるりと光る孫の顔近寄り見ればはにかみ俯く
おまごさんたちをいとしく想う気持ちにあふれています。
★終戦後異国となりしも忘れ得ぬ大和撫子と謳われし日を
青春時代だった戦時中の歌は心にしみてきます。
★「おばあさん」と呼ばるるもまた嬉しけれ二度となき生(よ)をわれは生きて
「生」について考えさせられる歌です。
★薄れゆく家長の威厳に蘇る大正昭和の祖父・父の顔
亡きご主人を含め家族のことを謳われた歌も多いのです。
林さんは、1994年に「たんがら会」、1996年に「かりんの会」に入会、生あるうちに孫子らに日本の伝統詩である短歌という文化の一端を伝え、あわせて日台親善の懸け橋でもなれたらと歌集を作られました。
ここではもっとご紹介したいのに、紹介しきれないくらいの歌にあふれた歌集です。
姚望林さん 86歳(大正15年生まれ)
入会は2001年。現在台湾歌壇の事務局長である三宅教子さんと慈濟功徳会の日本語チームで、共に中国語の月刊誌を日本語に翻訳していたのが縁で誘われたそうです。(慈濟は台湾4大仏教の一つで、花蓮に本拠地があります)姚さんは、2001年~2005年の間に1000首を詠み、「第一歌集」としてまとめ印刷しました。今でも毎月約20首を詠み、自分でPCに打ち込んでいますとのこと。中でも2007年日本の「牙短歌会」と「台湾歌壇」の合同歌会で詠んだ歌が佳作となり、石田比呂志氏から表彰されたことは大きな誇りとなったそうです。
★ 「故郷の歌」
故郷の匂ひ懐かし土の香も流るる川も穂を吹く風も
この歌は何枚も毛筆で書き、掛け軸にして子供たちにプレゼントしたそうです。姚さんには、もう一つ印象的だったのが、角川短歌賞の海外部門で選ばれたこと。その歌もここにご紹介します。
★ 四百年踏まれたり又蹴られたり台湾人よいつ眼が醒める
「何を見ても歌がどんどん溢れてくる不思議な感覚になるときがあるんだ」創作意欲がますます盛んな姚さんです。
曽昭烈さん 84歳(昭和3年生まれ) 8年ほど前にすでに会員になっていた黄さんに誘われて来て、そのまま入会してしまったそうです。短歌の趣味はあったけど、作る機会がなかったからとのこと。水彩画もたしなみ、今は歌に絵に、芸術を謳歌しています。曽さんは嘉義のご出身で、1949年、国鉄(台鉄)職員として台北で仕事を始めました。勤続30年。退職後は貿易会社を設立。繊維を扱い、主に日本との輸入輸出が中心。息子さんが手伝ってくれていると言われたので、え?曽さんは、今も現役?と聞いたナビに、そうだよ、と。背筋がピンと伸び、いつもダンディな紳士であられる様子から納得できました。
一ヶ月に一回の短歌の会は、交流の場としてとても楽しいと曽さん。自分的に印象に残っている歌は、「ケイタイを 握る手の裏 汗ばみて 君待つホームの発車五分前」粋ですねえ~。
林聿修さん 82歳(昭和5年生まれ)
台湾歌壇に入ったきっかけは、日系の会社に勤めていた頃、「さんご誌」に掲載されていた呉建堂先生のエッセイを拝読した後、呉先生のおすすめで入会。ご本人曰く、「入会して35年。その間呉建堂先生のご熱心で厳しいお導きに続き、北島亨先生はじめ、蔡焜燦代表、三宅教子さんの語指導のもと、メンバーの皆さんに囲まれて和やかな楽しいムードの中で学ばせていただいてます。
私にとりまして、公学校卒業後、太平洋戦争終戦までに受けた8年半の日本教育は、かけがえの無い大切なものです。短歌を学ぶことにより、日本文学の一端に触れられ、更に老後の心のともし火ともさせていただいております。
林さんに今まで詠んだご自身の歌で一番すきなのは?と伺うと以下の一首をいただきました。
★冷えしるき道に商う母の傍無心にたはむる児らの幸せ
短歌の勉強を始めた頃、ゆきずりに見かけた一こまで、生活に追われる母といとけなき児らの姿が今も林さんのまなうちに浮かんでくるそうです。
「台湾歌壇」のお姫様 舘量子さん
高雄で日本語教師をしている舘さん。毎月この日のために新幹線でやってこられます。知り合いの紹介で入会して3年目。最初台湾に来た目的も年配の台湾の人たちとお話がしたかったからという舘さん。彼女がいるだけで、周囲がパッと明るくなります。毎月この日が楽しみで、緊張しながらもとても幸せな時間を過ごしているそう。
彼女曰く「最初に交流があって、その後だんだん短歌のすばらしさもわかってきました。今では私の短歌は、台湾仕込みの短歌と言ってもいいかも。ご年配の方が多いから毎月寂しい歌もありますが、おじいちゃんたちの意志を継ぐつもりで短歌は続けていきたいですね。自分も寂しいことがあるたびに、歌を思い出してその気持ちがよくわかるんです。」台湾南部(嘉南大圳水利組合の招待所)でも、毎月第3月曜日に歌会がありますが、そちらも毎回出席しているという舘さんです。
冫余世俊さん 台湾川柳会幹事(本業は超エリート社員)
台湾川柳会の幹事でもある冫余さんは、2009年に入会しました。きっかけは、温泉好きの冫余さんが北投の行きつけの温泉で湯に浸かった後、木陰で日本語の文庫本を読んでいたところ、すでに会員だった陳清波さんに川柳会に誘われたのが運命の始まり…。
川柳会に入会してからは、あれよあれよという間に世話役になり、短歌会へは川柳会の会員が9人もいることから、毎回来週の日曜日必ず来てねと声をかけるために短歌会へ足を運ぶのだとか。冫余さんが好んで選ぶ短歌は、読んで楽しいもの、読みやすくて気持ちがぴったりと合うものだそうです。
「台湾川柳会」は、毎月第1日曜日、ご連絡は下記へ!
taiwansenryu@gmail.comTEL: 0910-128-169 FAX:(02)2707-8231
大歓迎です
事務局長である三宅教子さんからいただいた資料をまとめていると、以下の文がありました。呉先生が以前話したのは、「上手ではなくてもいい、有名歌人にならなくてもいい、自分の生活や思いを素直に歌に詠む」ことを基本にして、若い人にはいきなり文語で歴史的かな遣いで歌を作るのが難しいので、口語短歌も許容しながら、柔軟に会の存続を考えていきたい。ナビも少しずつ大先輩に近づいていきたいと思います。
台湾歌壇・台北歌会 毎月第4日曜日
連絡先:formosa.noriko@gmail.comFAX
電話:(02)2217-9050
開催場所:台北市南京東路一段118号(国王ホテル)2F
時間:11:30~15:00
年会費:2500元 毎月第4日曜日の食事会で350元。受付で食事代を支払い、席に着きます。
一番最初の参加日は、食事代などの費用は一切掛かりません。
席に着いたら今月の短歌に目を通し、自分がよいと思った歌を2首選びます。その後食事をし、食事後に各自順番に選んだ歌を発表、感想などを述べます。
台湾以外の海外にも短歌会はあります、ブラジルやシアトルは日系人や日本人が中心となっていますが、外国人が中心となって、これだけ長く続いている「短歌会」があるのは、台湾だけ。会員の中には、ご高齢の方も多く毎回会に出席できない方は、歌だけを送っています。日本人会員も20人近くいますが、日本在住の方はやはり毎回歌を送ってきています。若い方は22歳の大学生から。興味のある方はぜひ足をお運びください。
他にも台湾俳句会は、毎月第2日曜日に同じ場所で開催されています。
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上記の記事は取材時点の情報を元に作成しています。スポット(お店)の都合や現地事情により、現在とは記事の内容が異なる可能性がありますので、ご了承ください。
記事登録日:2012-03-22