あの美しい港街「淡水」のシンボルとして名高い「マッカイ先生」。淡水には彼の遺跡がたくさん!テクテク歩いてみませんか?
こんにちは、台北ナビです。台湾八景・東洋のベニスとまで呼ばれている、風光明媚な淡水。観音山と淡水河、そして南国のマングローブというこの青と緑の対比は私たち日本人にとっては、「美」の何物以上でもありません。さらに、淡水は、西洋文化がいち早く入った港のひとつ。今でもそこここに赤レンガ造りの西洋風の建物が点在しています。さながら淡水のイメージカラーは「青・赤・緑」といったところでしょうか。どこかの国の国旗のような。さて、そんな淡水の町を歩いていると、ひとつギョッとする像を発見するでしょう。その像とは・・・
これです。
こんな頭だけの大きな像が、交差点の中央に威厳よく立ちはだかっています。しかもこの交差点は、淡水の中でもメインスポットというにふさわしい場所。上に登れば淡江高級中学・真理大学・紅毛城・下に下れば淡水の長い長い夜市と川辺。そして、この像の周りは、おしゃれなカフェがひしめいているのです。そんな淡水中心地を、我がもの顔で占拠している、この顔の人物が、今回のテーマ。「
マカイ医師 馬偕先生The reverend G.L.Mackay」です。
近代文明の伝道者
日本の札幌農学校の初代教頭クラークス博士は、日本ではとても有名ですが、このマカイ医師は、台湾のクラークス博士ともいえるでしょう。彼を通して、多くの若者が近代文化に接触し、特に北部台湾の近代医療の発展は、彼を基に起こったといえます。クラークス博士と同様、マカイ医師もキリスト教伝道者であり、おもに医療を通して伝道活動をおこないました。そのため、淡水には、マカイ先生由来の教会や教育施設・病院がたくさんあるのです。
レンガ色の教会
今日は、そのマカイ先生が最初に作り上げた
淡水教会の陳長老が、淡水各地のマカイ先生由来の地をご紹介してくれることになりました。
淡水駅前に来ると、もう車で待っていてくれた陳長老。今日は暑さ厳しい八月の前半。八月の港町を徒歩で何時間も歩くのは、熱中症の危険があると察したのでしょうか、車があって、本当にホッとしました。
レンガ色の広場
車で5分もしないうちにたどりついたその場所は、どうってこともない場所なのですが、よく見ると、ビルとビルの間の壁が、すべてレンガ色に塗られています。さらに、真赤なレンガ色の壁の奥に、なんだかかわいらしい煉瓦の教会が見えるではないですか。この左右レンガ色のこの通りは、2008年に完成したんだとか。教会がこの土地を買い取って、広場にしたんですって。こんなところに、赤いバージンロードをさぁっとひいたら、なんだか空まで飛んで行けそうですね。
さてその奥にある教会ですが、これが今台湾北部に残る最も歴史ある長老教会なんだそう。1872年淡水に着いたマカイ医師は、まず一軒の借家から、開拓医療伝道を始めています。教会の隣に水色の建物がありますが、これがその借家であり、その後の診療所となった場所。現在は記念館として保存されています。
教会に入ってみよう
通常礼拝の時以外、一般客は会堂には入ることはできませんが、今日は特別に内部も見せてもらうことになりました。教会の横にある細い道「馬揩街(マカイ通り)」を通って、奥に教会の入口があります。意外に質素な造りの会堂でした。そのため、窓にはめ込まれているカラーステンドグラスがとても印象的。さて、この礼拝堂ですが、1873年当時は別の場所にあったんですが、1875年にこの土地を買い取り、当時医者の宿舎だったこの建物を礼拝堂に変える工事が行われました。完工したのは1890年のこと。その後二回の建て替えが行われ、現在のこの姿は1928年の教会成立60周年とともに、同じくカナダ人の建築家によって作られました。(完成は1938年)
馬揩街(マカイストリート)なんて名前があるほど、マカイ先生は有名なんです。
|
|
意外に地味。でもステンドグラスの色が目立ちますね。
|
寒いところから来たカナダ人建築家は、少しでも故郷の様子を伝えようと、窓ガラスにある工夫を施しています。実はこのデザイン、外の気温が氷点下以下の時に現れる、あのガラスの霜を表しているんですって。現在もうこのガラスは生産されていないため、右下のガラスは、現在の代替品。
教会のすぐ隣にたっているこの建物は、診療所として1879年に作られたもの。平屋造りでなんとなく台湾の昔の家に似通っていますが、窓のつくりや入り口が西欧的で、特に入口の水色が、淡水河の青い色を思い起こさせますね。現在この内部は、展示資料室となっていて、ここが診療所として使われていたころの家具や、マカイ先生の写真、実際に来ていた服などが所せましと展示されていました。
実は、双連駅にある大きな馬偕医院の前身がこの「滬尾偕医館」なんです。
こんな風に、台湾各地を探検し、伝動活動をしていました。
また、この旧診療所の半分はカフェになっています。天井が高く、清潔感のあるカフェ。しかも、慈善事業として行われているカフェなので、リーズナブルなのがありがたいです。
壁の奥はレンガになっています。
【淡水教会・滬尾偕医館】
■淡水鎭馬偕町8号 電話:02-2621-4043
教会会堂を見学したいときは、先に連絡するほうが無難です。平日は開いていません。
陳長老「知る人ぞ知る、マカイ先生上陸ポイントがあるんだよ。行ってみよう」そう言われ、またバンに乗り込むナビたち。皆があまり知らない上陸点なら、きっと車でしか行くことのできない場所なのかと思っていたら、車に乗って3分「さ、ついたよ」なんてさらっとおっしゃる陳長老。教会からすぐのところにありました(車で行く必要ない?)。車から降りると、淡水河の塩っけの混じった風が顔にかかります。そして、目の前には観音山を背にひざまずく黒い銅像が。
よくみると、銅像の下には、ボートが。そう。ここが1872年の上陸ポイントなんです。実は最初高雄に上陸したマカイ先生ですが、その時はすでに南部ではイギリス系の宣教団体が伝動活動を行っていたため、三日かけて、北部の淡水に再上陸したのです。そしてこの上陸ポイントで、「この地をわたしの宣教の地に決め、医療の基地とする」と誓った場所なんだそう。
上陸日時は 1872年三月九日午後三時。まさに、ここから、台湾北部の医療・近代教育の足がかりが築かれました。
隣には、スタバと郵便局。日本時代、実はこの目の前の淡水河は、飛行艇が着水する場所で、日本と台湾を行き来する郵便物が飛行艇で届けられ、このスターバックスの後ろの郵便局を介して、台湾各地に届けられて行ったんだとか。
台湾で、最も歴史ある学校のひとつ「
淡江高級中学」も、マカイ先生を語る上で外せません。
実は陳長老のお父様は、1946・5~1947.3の期間この淡江高級中学で校長先生をされていました。息子の陳長老にとっては思い入れがある学校なのでしょう、車が校門に近づくと表情がわずかに変化したのを、ナビは見逃しませんでしたよ。
「淡江中学」といえば、あの
ジェイ・チョウの母校でもあり、ジェイ・チョウ監督の「
言えない秘密(不能説的秘密)」の舞台になった場所として、さらに大きく注目を集めた高校でもあります。一般開放していますので、誰でも参観できます。
淡水の観光スポットとして、いつでも開放されている「淡江高級中学」。この日も、学校の美しい建造物を見学しに、観光客が校内を歩いていました。
体一つでカナダから来たマカイ先生は、地元の牛飼いの少年から台湾語を学び、また台湾人の奥さんとともに、自分の体も身も人生そのものを台湾での伝動活動に注いだ人生でした。医療を通して、熱心に伝動を行う姿は、当時の地元の人からは多くの反感も買い、根も葉もないうわさや、悪魔と叫ばれたり、暴力を受けたこともあったそうなのですが、その熱意の甲斐もあってか、彼の伝動活動を通して、台湾に「医学」と「近代教育」の概念が培われました。
今、淡水にある「淡江高級中学」は、マカイ先生の伝動活動の集大成ともいわれる、「牛津学堂(オックスフォード大学)」が現在まで残った学校です。(淡江高級中学の隣の敷地にある、真理大学の中にあります。)
マカイ医師の故郷オックスフォード。実はこの「牛津学堂(オックスフォード学堂)」はそのオックスフォードの人々たちの寄付によって作られた大学。マカイ医師自らが設計デザインも行い、出来上がったその学堂は、各地教会の伝道師・信徒ならず、英国領事館・清国官吏やイギリス商人などからも絶大な賞賛を得たそうです。その後は、もちろん神学のみではなく。社会科学・自然科学・医学理論・臨床実習などが行われ、名実ともに、台湾第一の西洋式学堂として開かれました。
台湾において、はじめて女性教育を推し進めたのも、マカイ先生。日本もそうですが、昔は「女性は学問など必要ない」という観念が台湾でも一般的だったのですが、その概念を変えるべく、オックスフォード学堂の隣に、「女学堂」が作られました。一期生は34人。女子教育を推進すべく、当時。授業料・交通費すべて免除、さらに衣食住についても補助を出したというほどだったのですが、第一期生の女学生のほとんどは、宜蘭原住民カマラン平浦族であったということです。そのため、今女学堂のすぐ眼の前には、原住民の石造りの家や、その当時の農耕生活の様子が銅像などで展示されています。
マカイ先生が使った、歯を抜くペンチがありました。台湾人の歯を抜きながら伝動活動をしたんですって!
同窓会室の裏には、むかしの台湾の生活用品を集めた小さな
博物館があります。同窓会室のスタッフに申し出れば。開けてくれるそうですよ。
実はこの淡江高級中学には、学生が運営しているカフェがあるんですよ!広いこの一帯を歩き疲れたら、ぜひここで休憩してみてください。なかでアルバイトしているのは生徒たち。成績が良い生徒がアルバイトしています。成績が下がったらアルバイトできなくなってしまうそうです。値段もリーズナブル。学生さんにうれしいカフェです。
日本時代に、教育内容などが大きく改変され、日本人教師による日本語教育になった時期もありましたが、一般の旧制中学と違い、台湾人の学生にも門戸が開かれた名門校であったため、この学校は、台湾人のエリートを育成に大きな役割を果たしました。かの李登輝総統も、日本時代はこの学校の学生であったことからもうかがえます。
平日の昼間には、結婚写真の撮影スポットにもなるほどの歴史と自然が調和したこの美しい淡水。美しさの裏には、台湾の近代化の礎を作った、カナダ人マッカイ博士の存在を忘れてはいけません。そう考えると、やはり、あの淡水の大きな交差点には、マカイ博士の大きな顔の銅像が似合うわけですね。淡水を導いた、守り主「Reverend G.L.Mackay 馬偕先生」。
以上、台北ナビでした。
関連タグ:
淡水
,
マカイ
,
病院
,
医者
,
遺跡
,
マッカイ
上記の記事は取材時点の情報を元に作成しています。スポット(お店)の都合や現地事情により、現在とは記事の内容が異なる可能性がありますので、ご了承ください。
記事登録日:2008-10-15