南投県竹山鎮には、竹を自由自在に操り、素晴らしい芸術品を作り出すアーティストがいます
こんにちは、台北ナビです。
台湾中部の竹山鎮は、南投県で最も早い時期に開発が行なわれた地域と言われています。その時代は明朝にさかのぼり、鄭成功が武将の林圮を竹山に派遣して開墾を開始したのが最初で、林杞は竹山鎮の開祖とされているのです。
1920年、日本統治時代に、台湾で最も良い竹を多く産出したことから「竹山」と名付けられ、以降その名がずっと使用されていますが、鄭成功時代に林圮が開墾した功績により、その昔は「林圮埔」と呼ばれていました。
アーティスト宅訪問
竹山は古から主要道路が開通し、日本時代には、竹の大産地として発展。国民党時代、台湾の経済復興の中、アメリカやヨーロッパへの竹製品の多くは、竹山産のものでした。
1970年代には、竹山の住民はすべて竹産業に従事していたと言っても過言ではないほど、竹で活気がある街だったのです。今回訪問したアーティストの游文富さんも、当時の実家は竹工場で、幼い頃から竹とともに生活してきていました。
しかし、竹は台湾国内では、その繁栄の時代からつい最近まで、箸や籠などチープな消費されるものとして認識され、その域を出ることはありませんでした。そういうこともあって、やがてプラスティックが竹に台頭し始めた頃、竹産業は衰退を余儀なくされたわけです。
游さんの実家もそうで、高校卒業後には給料ももらえる軍人学校で学び、その後職業軍人として15年勤務。戦闘機に乗る飛行士として活躍していました。
游さんの転機は、1999年の921大地震でした
中部を震源地とした大地震は、多くの人の命を奪い、竹山鎮でも6割の家屋が崩壊。当時結婚もし、子供も生まれたばかりでしたが、游さんは一大決心をします。軍人を辞め以前から好きだった美術を学ぶためイギリスに留学、アートスクールに通い始めます。学生をしながらヨーロッパを放浪し、多くの刺激を受けてきました。若いアーティストに混じって、イラストから習い始めましたが、徐々に人には見えないけど感じるものを写真におさめたりしていくうちに、作品もそういう傾向になってきました。
最初に取りかかったのが「羽毛」で、游さん宅にも当時エルメスからのオーダーで創った作品が壁に飾られています。
こちら、羽毛でございます
ある日、游さんは、NYにいました
ある日、游さんは、NYにいました。NYの28番街で、50ドルの竹カゴを見つけます。この竹かごこそが、当時竹山が勢いを増していたころの製品で、まさに游さんのご両親も手掛けていたカゴだったのです!当時台湾では5元あるかないかの価値だったカゴが、50ドル!しかもこのNYでこんなにファショナブル!に存在していることに衝撃を受けました。当時この竹カゴは、台湾国内では販売されず、すべてアメリカへの輸出用として、彼らが夏にビーチへ行くときにタオルや水着などを入れて持ち歩くのに使用されたのです。游さんは、「自分の昔」をNYで見つけ、台湾へ持って帰りました。
便利!
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きれい!
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これが35年前、竹山で作られていたバッグなんです! |
かつて台湾の人にとっての竹製品は、生活用品の一つで、「芸術」に成るはずがありませんでした。この竹カゴの表面には梅や蓮などチャイナを表す絵も描かれていました。そして、約35年を経ているのにこの美しさと実用性。携帯にも便利で、押すとペッチャンコになり、広げるとほら、こんなにきれい。竹の美に目覚めた游さんは、精力的に竹を使用した作品を造り始めます。作品の一部は游さん宅にもあり、実際に使用されてもいました。
游文富さんのここ数年の経歴
2010 台北國際花卉博覽會夢想館ロビーにて機械花設計と執行(工研院と合作)
2011 台北國際設計展國際工藝館(松菸NO.5)会場設計と執行
2011 台北國際文創博覽會参加
2011 香港WTC世貿中心クリスマスショッピングモールデザインと執行
2012 「龍耀101」台北101ショッピングモール戶外巨型竹編龍デザインと執行
2012 上海環保國際中心ECO1877 大型室內藝術燈デザインと執行
花博で紫の大きな花を見たことがある人は、これでひらめくはず?游さんの作品で、これは試作品の段階なのです
デザインチームで竹を遊ぶ!
游さんは現在5~10人のチームを持って、創作活動を行っています。将来的には、南投県の景色がとても美しい渓頭の近くに、竹の博物館を設立するということで、もう準備に取り掛かっています。
敷地内は竹のユートピアになるそうで、竹作品の展示だけでなく、竹教室、ショップやカフェ、竹の民宿も計画しているそうです。
竹山の竹に熱い情熱を注ぐアーティスト游文富さん、ナビは今後も応援していきます。