茄苳樹のトンネルを抜けると、静かな下賓朗集落Pinaskiがありました
こんにちは、台北ナビです。
台東県卑南郷賓朗村には、花東縱谷國家風景區-卑南遊客服務中心(トラベルインフォメーションセンター)があるのですが、本日訪れた下賓朗集落は、この建物に向かって右側の一帯に広がるプユマ(卑南)族の集落です。東部を走る特急列車として、2013年から運行している普悠瑪列車(プユマ号)がありますが、この列車名は一般公募によってプユマ族に由来して命名されました。
こちらへは鼎東客運の山線である8161、8163、8165、8166、8167、8168、8170、8171番に乗って、下賓朗で下車。茄苳樹の並木道を歩いていくと、下賓朗集落があります。卑南遊客服務中心を目指しても着くことができます。
卑南遊客服務中心
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内部にはプユマ族の紹介もあります
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茄苳樹(英語名:Autumn maple tree)の並木道である通称綠色隧道(グリーントンネル)、この先が下賓朗部落
下賓朗集落Pinaskiのもともとの地名は檳榔(ビンロウ)と言ったそうです。檳榔を植えたり、檳榔を食べるからそう言っていたのではなく、Pinaskiの人々が自ら名乗っていた地名で、日本統治時代、日本人はここを「檳榔樹格」と呼んでいました。プユマ族が自ら呼んでいた地名と集落の形、特色、整然とした道路からきています。
Pinaskiは、プユマ語で「上坡」(上り坂)という意味だそうです。初期の集落があったところが、北に2キロいったところの標高200mの台地で、彼らの祖先は南王などのプユマ族の集落から移ってきたのでした(プユマ族は大きく分けて知本と南王があります)。
この一帯が下賓朗
初期の集落は高台だったため難攻不落であったものの、家屋が白アリにやられたため移動を余儀なくされたのでした。まずは高台下の山間の谷へ移動しましたが、谷底は行動に制限があるため、3度目の移動として賓禸國小横の太平溪のほとりへ。これが現在の場所で、最後の移動は1931年の日本時代のことでした。
集落の地形が碁盤の目のように整っていたことで、後に「台東市郊花園別墅區」(台東市郊外の花園別荘地)とも呼ばれるようになりました。
ごめんください
下賓朗はプユマ族の10個の集落の一つで、日本時代に現在の場所へ移動してきたので、かれこれ100年の歴史があります。その長さから集落内に残されてきた人文資產も豊富で、個人の宅にお邪魔しても、生活の中に培ってきた伝統文化や隣近所との密接なつながりを知ることができます。
築約80年のPaedavan Taizangさんのお宅
ナビたちがおじゃましたのが、Paedavan Taizangさんのお宅。プユマ族は姓が前で、自分の名が後ろです。芝生が美しく、花がいっぱいの可愛い一軒家は、Paedavanさんのお爺様であるサムゴワンさんが56歳の時に、日本人の大工棟梁である黒木政次郎さんに依頼し、1935年(昭和11年)に建ててもらったものです。
こちらです
Paedavan Taizangさん
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お爺様はサムゴワンとカタカナで書かれています
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約80年を経た家屋は部屋が4つありましたが、台風の多い東部にあって、修理や改築、増築を重ねてきたものの、唯一畳の部屋は昔の形を残しているとのことでした。
唯一の畳の部屋
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各所とも丁寧に使用されている様子が見受けられます
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日本時代は日奈田という名字だったPaedavanさんのお爺様。客間の中央には写真が飾ってあり、ソファの上部に飾ってあったお母様が作ったというプユマも刺繍もとても素敵でした。
プユマの刺繍は、可愛らしくて素敵です
下賓朗部落Pinaskiと言えば
入口の茄苳樹(英語名:Autumn maple tree)の並木道である通称綠色隧道(グリーントンネル)は有名で、十股水利公園も歩いてみたいスポットのひとつです。下賓朗の小さな集落で約70戸ですが、住民の結束力は強く、文化継承には尽力を注いでいます。集落内には比那斯基(中国語で読むとPinaskiという発音)青少年文化樂舞團があり、自ら大型のイベント活動を行う傍ら、各種のパフォーマンスグループを招待したり、林蕙瑛老師の指導の下、演出内容は伝統的なプユマ族の歌や踊りのパフォーマンスだけでなく、オペラ的要素も取り入れたプユマ伝統の舞台劇も行っています。
【巴兒拉邦紅坊】というプユマ族の手工芸工房も下賓朗にあります
下賓朗の人たちは、イベント活動には積極的で、台灣史前文化博物館にて「mi’aputr戴著花環的人們:下賓朗集落特展」という展示を開催したこともありました。展示内容は、100年間の人や出来事、生活などを紹介したもので、白黒写真は日本時代のものであったり、年配の方たちやお亡くなりになった方たちの生前の姿なども展示され、案内役の人たちによって下賓朗集落が外部の人たちにも詳しく紹介されたそうです。ナビは行けませんでしたが、こじんまりした静かで可愛い集落を少し歩いただけで、ここに住む人たちがいかにこの土地を愛し、穏やかな日々を過ごしているかがよくわかりました。
プユマ族は、頭目制度と男子会所による年齢階級組織が混在した母系社会で、男性は集落に属するとされます。中心にある男子会所はパラクアンといって、主に争いごとの解決を行う組織です。戦前は妻が先立たれたら、男性はこのパラクアンでの生活を余儀なくされたそうで、アミ族同様、母系社会のプユマ族男性は大変だなとも感じました。かつては世襲の頭目(ayawan)がいましたが、現在その職権は村長が継承し、やはり村の皆から尊敬されています。また祭師(rahan)と称される部族の重要な祭祀を司るシャーマンもいます。
男子会所ではプユマ族を代表する猴祭も行われます。飼っているサルを頭目の命令によって射し、それによって肝を試すという13歳から16歳の少年の通過儀礼祭祀ですが、日本時代に廃止となり、今は形式だけとなっています。他にも青年の通過儀礼祭祀である大狩猟祭や粟の収穫に関する豊年祭や収穫祭もあります。
下賓朗では、毎年4月に行う除草祭がいちばん盛大とのことでした。
以上、台北ナビでした。