台湾玉で、自分だけのアクセサリーを作ってみませんか?
こんにちは、台北ナビです。
台鉄「豊田」駅を降りて、山側へ向かう方向に、台湾玉の販売やアクセサリー作りの体験ができる「如豊琢玉工房」があります。駅からも歩いて行けます。到着すると「お土産屋さん」という華美さは全くなく、え、ここですか?っていう雰囲気で、入口の地面にさりげなく玉を埋め込んであるのも商売っ気無しって風。聞けば、ここに割れ目ができちゃったからちょうどいい大きさの玉を埋め込んだのだとか。
店構え
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「玉」、埋め込みました~
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手作り体験ができます!
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無造作に積み上げられた宝の山
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台湾玉は3000年の歴史ですが
記録によると1932年(昭和7年)、中島という日本人が花蓮の荖脳山で狩猟をしていた時に白い繊維状の石綿を見つけました。1938年になって砂田鄰太郎が石綿磺業所を設立し採掘を開始、1941年には「台湾石綿株式会社」が設立します。戦時中の日本は軍事武器の断熱材として大量の石綿を必要としたため、掘っては日本国内へ運び続けました。当時の豊田村と言えば…石綿産業はサトウキビと並んで盛んだったのです。そうやって1932年から日本人は石綿の発掘に情熱を燃やし続けましたが、その石綿が生えている石=石綿の奥に潜む「玉」という宝物には全く気づくことなく終戦を迎えたのです。
豊田玉の歴史
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日本人は玉を知らなかった…と書かれています
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日本時代のこと
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そして、日本人が重視した石綿(アスベスト)はこちら
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一攫千金を狙え!
1960年、荖溪の河で緑色の輝く岩石が発見されました。検証後にそれが経済価値を生み出す玉(ぎょく)だというのが分かり、豊田村では採掘ブームが起こりました。荖腦山では素晴らしく貴重な玉鉱脈が発見され、一躍「豊田玉」としてその名が知れ渡ったのです。1960~70年代(民国50~60年代)のことですが、「豊田玉」は台湾玉の代名詞とも言われ、世界的にも有名になり、当時の豊田村は台北の玉市町にも引けをとらないくらい玉の売買で栄えたのだとか。当時、台湾玉で50億元くらいの外貨を稼いだそうです。
やがて豊田村の荖腦山はすでに採掘が禁止され、台湾玉は希少なものとなりました。日本時代に石綿の鉱脈が発見され鉱業が栄え、サトウキビで農業も栄え、鉄道が発達した豊田村でしたが、玉も去った後は静かな農村に戻りました。
体験教室に参加
「如豊琢玉工房」は台湾玉の加工販売店ですが、体験教室目当てで来るお客さんも多数いらっしゃいます。教室は玉のかけらをお客さんの体験用に使用していますが、オーナーの姜(キョウ)錦源さんはお客さんには歴史も紹介しながら、「豊田玉」の火を絶やさないように語り継いでいるのです。姜さんは桃園から移民してきた客家人の3代目で、奥さんや家族も手伝ってお店と体験教室を切り盛りしています。
玉のかけらを使用します
自分で玉のアクセサリーが作れる体験コーナーがあるんです。
お店で買えば1000元以上はする台湾玉のネックレスが、数百元で自分で作れます!
選択 まずは自分のモチーフになる玉選びから。ハートやチマキ、台湾の形などいろいろあって悩みますね。
工程によって席を換わります
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ナビは木の葉を選びました
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設計 全行程約30分で完成。まずは最初の面取りから。モチーフの角をまろやかにします。高速のグラインダーに振れ過ぎないように気を付けてくださいね。
成型 後の段階は水磨(みが)き。
研磨 磨きすぎると変形するかも?途中でスタッフが修正してくれるので安心しました。
光沢 最後に「馬皮」で磨いて光沢を出します。まるで水に濡れたようにきれいです。
仕上げ 最後に、好みの色のヒモに通してもらってネックレスの完成です!
どうです?かわいい木の葉のチョーカーが出来上がりました。
夏場には、店からそう遠くない白鮑溪という渓流で玉の原石探しもできるそうです。先にここで玉を拾ってから店に持ってきてもよいのだどうです。が!玉かどうかは、店で判断されますが、姜さん曰く素人の人たちが拾うのは大体ただの石なんだそう。台風や大雨の後で上流からの水量が多かった時には、宝物が発見できるかもしれないそうです。
お店の様子
姜さんと奥様
先ほどは店舗内を通らず、いきなり外側から体験教室に入りましたが、帰りにお店の中を通ると、石、石、石の博物館みたいです。きれいに仕上がったアクセサリーや印鑑も揃っています。キャッツアイも大きいですね。印鑑の値段を見ると?あら、台北よりかなり安い!印鑑を必要としていたナビ友、さっそく!台湾玉とともに現在は採掘されていない花蓮特産の玫瑰石(ローズストーン)の丸っこくて持ちやすい印鑑を購入しました。値段は秘密です。
以上、台北ナビでした。