アミ族のKikuさんが淹れる砂荖特産の絶品コーヒーをどうぞ
Kikuさんと「太巴塱」の那麽好牧師
こんにちは、台北ナビです。
「私はキクです」と目を輝かせながら、ナビの目の前に現れたのは、呉珽熙(Kiku Ciyang)さん。「砂荖集落」のランドマークでもある、193線という自転車愛好家たちの県道沿いに立つ「奇古匠」というカフェのオーナーです。
その昔「太巴塱」集落の人口が増え、一部が今の「砂荖」に移動、ここでは当時沙石から塩を抽出していたため、「砂荖」という名になったのだそう。のどかで小さな「砂荖」は、現在約70戸、150人の人たちが住んでいます。「砂荖」の大きな門構えを入ると、昔の日本の情景が目の前に広がります。昔話に出てきそうな、かわいくて小さな集落の入口左に、Kikuさんのカフェがありました。アミ族特有の竹を巧妙に編んだステキな造りです。
この日ナビは、「太巴塱」集落で、Kikuさんの芳醇なコーヒーをいただいてから、「砂荖」へやってきたのでした。
「砂荖」の門を抜け、集落の中から来た道を振り返りました
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門を抜けたら左側はKikuさんのカフェ。すぐわかります
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この景色に懐かしさを感じました~
先祖のお墓
カフェの横に集落の紹介
彼女がぜひ見てほしいものがある、と言って、ナビを案内したのは、カフェの横にある先祖(アミ族は母系社会なので母方)のお墓。日本統治時代の原住民のお墓はこのような形で、当時の名前がカタカナで刻まれました。国民党時代になってから日本のものが破壊され、墓地も壊される寸前に伯母たちが墓石を移動。家の中に2~30年間隠していたのを、Kikuさんはカフェを造った時にここへ設置したのです。
集落の頭目を務め、日本統治時代に教育を受けた明治2年2月生まれの高祖父の写真や当時の太巴塱公学校の卒業証書は、店内に飾ってあります
Kikuさんの先祖サプツクロワル氏の墓
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昭和5年9月17日、83歳で亡くなられました
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高祖父アブロンルアイさんの卒業証書、30代後半で学んだようです
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頭目を務めました
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Kikuさんの祖父母の時代です、富田公学校にて
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日本の着物を着ていました
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Kikuさんのストーリー
フランスの文豪、バルザッグは「私は家にいなければ、カフェにいる。カフェにもいなければ、カフェに向かう途中だ」というほど、コーヒー好きだったそうですが、ここ数年のKikuさんは、まさにこれ。なぜ彼女はカフェを始めたか?
実は台湾のコーヒーの歴史は日本統治時代にさかのぼります。東部の舞鶴や徳文などでは、日本人が残したコーヒー樹が受け継がれ、ここ数年、台湾のコーヒーの産地として、脚光を浴びています。最初に台湾ブランドを打ち出した古坑も、徳文からコーヒーの樹を分けてもらったのがきっかけでした。
時はコーヒーが日常になってきた2000年代の台湾。Kikuさんは幼い時母親から、年配の人たちが体にいいんだよ、と何だか黒い不思議な「お茶」をうちの中で飲んでいたと聞いたことがありました。当時は濾し布を使用したドリップで、布は洗って何回も使用していました。それってもしかしてコーヒーじゃない?そうよコーヒーよ!というのに気付いたのです。ちなみに「砂荖」の緯度は古坑と同じということも同時に知ったのです。
昔の日本人は栽培は教えてくれたけど、焙煎の技術は伝授してくれなかったそうで、住民はそのうち豆をそのまま煮て飲み、味がないので徐々に飲まなくなり、コーヒーの樹は農作物に取って代わられていきました。
故郷では職がなく、原住民の多くは都会に出て、自らも12歳で故郷を離れましたが、ずっと帰りたいという気持ちがあり、コーヒーなら地元でできる!とこの時思ったKikuさん。2002年「砂荖」に戻り、祖母が残してくれた土地を耕し、集落にわずかながら残っていたコーヒー樹から種を分けてもらい、植えました。やがてその種は生育し、実を成し収穫し、2005年「奇古匠」というブランドを打ち出しました。最初は皆にブランドを知ってもらうため、行商をしながらイベントや展覧会に参加。やっと収穫できた一袋で一杯ずつ販売。その後収穫がどんどん増えるにつれて、台湾各地を何回も巡ったそうです。
今はこのカフェで、夕方になると花蓮市の東大門夜市の原住民一條街でも「奇古匠」というブランドでコーヒーを販売しています。カフェのある193線は、サイクリングロードとしても有名。ここで休憩することが目的に、自転車で来る人たちも増えています。
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Kikuさんの名刺
シャイに見えながら、自信をもって夢の実現に邁進しているKikuさん。呉珽熙は中国語名で、Kiku Ciyangはアミ族の名。「奇古匠」は、アミ族の発音に漢字を当てはめたものです。そして、Kikuさんは、Kikuが日本語で「菊」であることを知っています。というのは「匠」の発音はジャンで、「奇古匠」を中国語で読むとチーグウジャン=菊ちゃんに聞こえます。Kikuさんのお父様は、「菊ちゃん」のつもりで名付けたのでした。
彼女の名刺には白い花があって、一瞬菊かと思ったら、これは山茶花。彼女が生まれた日に2本の山茶花の苗を植えたからだそうです。祖先を大切にする彼女は、現在コーヒーという地元発信の産業で、地元の若者たちにも職の場を提供しています。「砂荖」と聞けば、「奇古匠」でしょと皆が言う日はそう遠くないようですね。
凧の説明をしてくれるKikuさん
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行商箱を前にして
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豊年祭
右に井戸があります
ナビが訪れた日は、もうすぐアミ族にとって一年中で一番大切な豊年祭、という時期で、ここならではのお祭りの仕方を話してくれました。
まず案内されたのが、集落へ入り口の右にある井戸。300年以上も前のものです。「砂荖」では、初日は祈水祭Te fongで、その後豊年祭Ilisnが執り行われます。祈水祭の当日は早朝4時に、14歳以上の未婚の未成年男子たちが井戸の周りに集まります。男子たちは昔は真っ裸だったそうですが、今はふんどし姿。集落に井戸は5つあるのですが、長老Gagaの引率の下、まずはこの井戸から水がくみ上げられ、2つめの井戸に移動します。一つ目の井戸の水が2つ目に入れられ、またくみ上げられて3つ目に移動。これを5つ目まで繰り返し、そこが豊年祭の会場になっています。ここで祭祀や頭目が祈祷文を述べられた後、柚子の葉に汲まれた水が順番にかけられ、皆はその水で顔を洗ったり、体に刷り込んだりして、その年の家内安全、健康を祈ります。
3日間の祈水祭、豊年祭が終わったら、4日目は皆で魚を食べるのだそう。海岸沿いに住むアミ族は、魚料理がメイン。冠婚葬祭などで皆が集まるときに欠かせないのが魚料理なのです。
2つの凧
豊年祭が近くなると2つの星型の凧が集落の空に舞い始めます!
Kikuさんが、あ~ほら~!凧よ、凧~!と楽しそうに紹介してくれたのは、かなり遠いところで飛んでいる星形の凧。遠いのに音はすごく大きいのです。
アミ族の伝説によると、その昔、誤って父親を殺してしまった2人の兄弟が、頭に羽をつけ、星形の刀を掛け、許しを乞えなかった母親の目の前から地底に消えていき、その後2人の魂は天に昇り、日が落ちた時に一番最初に輝く2つの星になったとのこと。集落では2人を弔うため星形の凧を飛ばし、音を大きくさせることで、子孫代々からかつて集落に貢献した2人の魂に呼びかけているのだそうです。
一杯のコーヒー
~芳醇な味~
Kikuさんのコーヒーは芳醇という言葉がピッタリ。日本人が台湾で植栽したコーヒー樹はロブスタとアラビカですが、Kikuさんのところではアラビカを使用。サイフォンも置いてありますが、ドリップでゆっくり淹れてくれます。コクのある香りと濃厚な味は、背筋がシャッキとなるくらい目覚めさせてくれ、久々にこれぞコーヒーという味に出会った、1日3杯は欠かせないナビ。コーヒーは、Kikuさん特製のブレンドが一杯100元。「砂荖」収穫のコーヒー豆で入れた台湾コーヒーは、120元。ナビがいただいたのは、ブレンドでした。台湾コーヒーにはミネラルが多く含まれ、果実の酸っぱみも感じられるそうです。次回、花蓮へ行くことがあったら、ぜひ飲んでみたいものです。
以上、台北ナビでした。