李登輝元総統ともゆかりある台湾油絵界の第一人者・楊三郎氏の個人美術館です
こんにちは、台北ナビです。皆さんは楊三郎という台湾人画家をご存知でしょうか?日本統治時代の1907年に台北で生まれ、内地(日本本土)やパリに留学して絵を学んだ台湾油絵界の第一人者といわれる巨匠です。そんな楊三郎氏の個人美術館が、新北市永和区にあると聞いてさっそく参観してきました。
楊三郎氏は現在の新北市永和区一帯の名士だった楊仲佐氏の三男として誕生。小学生時代に、通学路上の文具店に飾ってあった洋画家・塩月桃甫氏の絵に感銘を受け、画家を志したそう。
家族からは反対されたものの、絵画への情熱は募る一方で、お小遣いやアルバイト代を溜め込み、16歳で内地に渡航。京都市立美術工芸学校や関西美術院で美術のいろはを学び、数々の賞を受賞しました。その後フランスにも留学したほか、戦後も積極的に創作活動を続け、中華民国油画学会を設立するなど美術の発展に貢献。1995年に亡くなるまで3000点以上の作品を描きあげたといいます。
李登輝元総統が開館を祝福した美術館
美術館があるのは永和区博愛街。MRT「頂渓」駅から徒歩5分のところです。元々楊家が所有していた広大な土地を利用しており、資料室とレストランとして使われているのは、楊三郎氏の元邸宅兼アトリエです。美術館は1991年にオープン。現在は楊三郎氏の一人息子・楊星郎さんが館長を務めています。
そんな美術館の外壁には李登輝元総統が揮毫した「楊三郎美術館」の文字が輝いています。楊三郎氏と李登輝元総統の縁は深く、日本統治時代には李元総統が少年時代を過ごした小基隆(現・新北市三芝)で楊三郎氏の絵を描く姿を後ろから眺めていたことが度々あったんだそう。当の楊三郎氏はそれが後の総統だとは思わず、単純に「背の高い少年だなぁ」と思っていたとか。ちなみに、李元総統の曽文恵夫人は、楊三郎氏のいとこに当たり、意外なところでもつながりがあります。
まずは5階から参観します
楊三郎氏の人柄が垣間見られるのが5階の展示です。ここでは、楊三郎氏と許玉燕夫人が晩年になって世界を旅しながら描いた絵画がペアで並べられています。
実は、玉燕夫人も幼い時から絵に対して深い興味を抱いていたそう。ただ、結婚を機に家事に専念していたため、自分自身で筆を握ることはなかったのですが、子育てが一段落した時期から夫婦2人で同じ時間、同じ被写体で一緒に絵を描くようになったのだとか。2人の描いた絵を見比べることで、印象派のタッチが特徴の楊三郎氏の作品がどんなものなのかを認識できます。
3・4階は20~60代の作品
戦前、戦中、戦後、日本統治時代から中華民国へと激動の時代を生きた楊三郎氏。複雑な時代背景は絵の中からも見て取れます。例えば、絵に加えられるサイン。日本統治時代は三郎の名に父親・仲佐氏の「佐」を冠した「SASABURO.YO」と日本語音のローマ字表記を書き入れていますが、公の場で日本語を使うことがはばかられた戦後は一転して「S.YANG」(SANLANG.YANG)と中国語音のローマ字表記に変わっています。
また、芸術家を含めて多くの知識人が迫害され、命を落とした二二八事件後には、楊三郎氏が受けた心の悲しみを表現した作品を書き上げています。
これ以外にも、早期の作品は褐色が多用されていたのに比べ、絵の具の品質が向上した後期では色鮮やかになったり、息子の星郎さんが独立し、心が穏やかになった際には、温かみのある作風になるなど、変化を感じられます。
日本統治時代(左)と戦後(右)の淡水の街並み。同じ位置から同じ構図でかかれており、約40年の時代の変化が感じられます
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左は台南の風景。古い家屋が立ち並ぶ様子が描かれています
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楊三郎氏の画材や日記も展示
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美術館の看板娘・福ちゃん
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代表作が展示される1・2階
右側の絵は戦時中に物資が不足する中で描かれた作品。楊三郎氏の作品の中では絵の具の厚みが薄く、ぼやけた感じに仕上がっているのですが、モネの作品の風格に似ているとの評価を受けました。
そして楊三郎美術館に飾られている作品の中で最も代表的な作品がこちら。玉燕夫人の姿を描いた作品で、ピンクの扇子を手にチャイナドレスを身にまとい、当時としては珍しい足を組んだポーズで女性らしさを強調した作品。星郎さんによると、楊三郎氏と玉燕夫人は「大恋愛」。結婚後も亭主関白ということはなかったんだとか。2人の会話は日本語だったそうです。
楊三郎氏は風景画を得意としましたが、時折「挑戦」として人物画を描き、玉燕夫人をモデルにした絵も複数残されています。特にこの絵は賞を獲得する名作なのですが、強い思い入れから売却されることはなく、美術館で展示されることとなりました。楊三郎氏の愛が伝わる作品です。
楊三郎氏は年を重ねるごとに大きい作品に挑戦するようになったほか、色遣いも鮮やかになったとのこと。晩年は体が不自由になり、絵の具のチューブを絞ることもままならない中、玉燕夫人や星郎さんのサポートを受けながら、筆を持つことだけは止めませんでした。
立体感のあるタッチが、四季の移り変わりを見る人に直接語りかけてくるようにさえ感じられます。絵画に詳しくなくとも、楊三郎氏の人柄や息遣いが伝わってくる展示になっています。
邸宅部分にも貴重な資料がたくさん
かつて楊三郎氏の邸宅兼アトリエだった部分は楊仲佐氏の資料室や食事が出来るカフェレストラン、アトリエになっており、参観が可能になっています。
ちなみに、当時皇太子だった昭和天皇は1923年の台湾行啓時、邸宅の庭に植えられていた菊を観賞なさったらしいという逸話が残っています。
仲佐氏は日本統治時代末期、今の台北市と新北市を結ぶ中正橋(旧川端橋)の建設で資金援助をしたとされ、戦後に永和区の前身・台北県永和鎮が誕生した際には代理鎮長に任命されるなど、政治・経済界から厚い人望がありました。資料室にはそんな各界との結びつきを証明する資料が展示されています。
また、建物の東側には1945年の終戦直後に増築されたアトリエがあります。物資が少なく、日本の統治から中華民国へと社会が大きく変化する中で、なぜこのようなアトリエが建設できたのかは謎ですが、北側に大きな窓を設けて採光性に優れたこの部屋は、戦後の創作活動の拠点となりました。
そして、このアトリエの中央に飾られている絵画には数奇なエピソードが残っています。どこかの街角を描いた風景画ですが、その色彩は非常に暗いものです。実はこれ、楊三郎氏がフランス留学時代に描いて、現地に住む人に売った作品だったんです。戦後、海外旅行に行った台湾人がギャラリーで展示されている同作品を見つけ、買い取った上で台湾に送ってきたんだとか。
ただ、楊三郎氏は送られてきた作品を未熟な時代に描いたものだとして見ることはなかったそう。アトリエには没後になって飾られるようになったんだとか。楊三郎氏は嫌がるかもしれませんが、技術の変化が目に見えて分かる貴重な作品になっています。
参観を終えたら、カフェレストランで休憩しましょう。広々としたテラスや温室のような明るい空間で食事やコーヒー・お茶・お酒がいただけます。看板メニューは松花堂弁当。楊星郎館長ののりこ夫人が調理した純・日本食の味ですよ。
金曜日と土曜日には、事前の予約があれば美術館の閉館時間17:00以降も21:00まで飲食が可能です。芸術に親しみながら軽くお酒だなんてとってもお洒落じゃないですか。
楊星郎館長とのりこ夫人、福ちゃん
印象派の絵画を通じて、台湾と日本のつながりや時代の移り変わり、そして楊三郎氏という画家の人生を知られる楊三郎美術館。ボリューム満点の展示で、台湾の人文について詳しく学ぶことが出来ました。楊星郎館長は「もっと多くの人に知ってもらいたい」と語っています。ぜひ時間を見つけて訪れてくださいね。
以上台北ナビがお伝えしました。