台湾のロンシャンの礼拝堂は台東の学校の中にあり!建築の美しさに心が洗われます
こんにちは、台北ナビです。
2008年夏、范毅舜さんが「海岸山脈的瑞士人」という本を出版しました。この本はスイスのシュヴィーツ州にあるカトリックの宣教修道会のひとつである「Societas Missionaria de Bethlehem(SMB)」(台湾では白冷會と言います)の宣教師達が台湾に来てどのような暮らしをしていたのか、彼らの偉業や物語を生き生きとした写真と共に紹介しています。
発売後大反響だったため、2012年末、「公東的教堂:海岸山脈的一頁教育傳奇」を出版しました。
この本のタイトルとなっている「公東的教堂」とは台東市の学校「公東高工」に建てられた教会のこと。今日は、その教会の美しさと公東高工創設及び教会建設に尽力された錫質平神父の物語に触れてきました。
スイスからやってきた宣教師達
学校内に彼らの偉業について書かれたものが展示されています
今から約50年前の台湾、特に台東は最も辺鄙で貧しい場所でした。
そんな場所に北欧スイスから1カ月もの時間をかけてやってきた宣教師達。台東に到着した際に、「背には山、目の前には海」という景色の美しさに感動し、またそれと同時にスイスの山々の景色を思い浮かべたそうです。
呉若石神父
その宣教師の中には我々、観光客にもおなじみの方がいます。それは足裏マッサージの父と仰がれる「呉若石」神父です。
呉神父は自分のリウマチを和らげる方法として足裏マッサージを学び、その後台湾で足裏マッサージを広めています。医療費もままならない台東の人々に足裏マッサージを広めることで、少しでも医療費が少なくならないものかと考えました。今でも、貧しい方が来るとマッサージを受ける際には無料で施術することもあるそうです。
公東高工創始者「錫質平神父」
公東高工はのどかな学校でした
錫質平神父が修道会から受けた重要な任務のひとつが、花蓮や台東の原住民の青年達に職業教育を行うということでした。そうして、その後の人生の発展につなげる助けになればと考え、1957年公東高工を創立し、数々の子供達の教育に当たりました。
公東高工の正式名は「天主教私立公東高級工業職業学校」といい、日本でいうところの「工業高等学校」にあたります。「公東」とは羅馬公教會(カトリック教会)の「公」と台東の「東」から取って名付けられました。
バイクに乗っていた錫質平神父
錫質平神父は「厳しくも優しいまなざしで生徒に接していた」と言われています。
当時の台湾東部は西部に比べ発展が遅れていたのですが、初めの頃は15名ほどの専門的な知識を持ったスイス人の教師がヨーロッパから持ってきた教材や教学方法を使用し、教えていたと言います。この頃に在校していた生徒達は海外に行かずとも、ヨーロッパ水準の技術が学べたんです。
芝生に入ると神父の雷が落ちます
神父の人柄を表すエピソードをひとつご紹介します。
神父は生徒達に庭の芝を一切踏ませなかったと言われているのですが、ある日、近くでバスケットをしていた学生がボールを庭へ入れてしまい、ボールを取るため仕方なく芝へ入りました。それを見かけた神父は、遠くから「こらー!芝を踏むな~。ちょっと来なさい!」と追いかけました。
そんな厳しい神父も、夜は必ず寮のすべての部屋を見回り、生徒達の蒲団をかけなおしてから、就寝していたのだとか。
黄建超さん
ナビが訪れた際、こちらで主任教師を務める「黄建超」さんにお話をうかがうことができました。彼も錫質平神父に1年間だけ英語を教わったことがあります。
どんな境遇の子供達にも教育を!と考えた神父。当時黄さんのお父様が早くに亡くなった関係で、色々余裕がありませんでした。毎週土曜日午前中で授業が終わって、他の生徒は帰宅するなか、午後4時間排水溝の掃除をするというバイトをしていました。4時間で400元のお給料だったといい、その当時ではかなりの高額バイトだったと言えます。
こう聞くと神父や学校はお金に余裕があったように聞こえますが、そうではありません。神父はヨレヨレで黄ばんでいる服を着用したりして、自分のために使うお金はかなり倹約。節約して貯めたお金はすべて学校のために使っていたんです。
公東高工の生徒に配られる「海岸山脈的瑞士人」の特別編集版
病気が悪化した後、スイスに戻ることになった神父。
神父の弟さんは見舞金としてお金を渡し、スイスでゆっくり休むようにいいました。もう神父は戻ってこないと思った先生方はお金を出し合い、神父へ渡しました。神父はそのお金を受け取りましたが、そのお金を使ってまた台東へ戻ってきました。そして、残りのお金でバスケットコートなどを作りました。
その頃のスイスもそれほど医療設備が整っていないということもあったとのことですが、自分の愛した台湾を離れがたかったのだとナビは思います。
1985年3月28日に亡くなった神父。学校では校内アナウンスが流れ、それを聞いた半分以上の生徒が机に伏して泣きじゃくったといいます。
告別式は学校で行われ、神父との最後のお別れをするために、台東いや台湾東部の各地から神父との別れを惜しむ人が集まり、会場は人で溢れかえりました。
神父の話をする黄さんは少しさみしそうに、でもとても懐かしそうな表情。黄さんのように神父を慕う人が大勢いたんだろうなぁというのがひしひしと伝わってきました。
当時一番のものを使用した心意気!
4階建の建物です
裏はこんな感じ
ここからは公東高中の藍振芳校長が教会のある建物を案内してくださいました。
正門から歩いて3分ほどのところにあるコンクリートで作られた4階建ての建物。これは台湾で2番目に造られたコンクリート製の現代建築物でこの最上階に教会があります。スイスから達興登建築士(Dr. Justurs Dahinden)とDr. Schubiger技師を招き、建てられたこの建物は、台湾の建築を学ぶもの達にとっては訪れたい建物のひとつだとも言われています。
ひとつずつ形も大きさも違う穴
|
|
今見ても洗練された設計
|
この建物は50数年前に建てられたままの姿を残しています。
草が生えていないところで上を見上げると…
|
|
漏水口がありました
|
建物の漏水口の真下にある場所では草が生えていません |
1階は現在も使われていますが、2~3階は以前、神父たちが暮らしていた場所。神父のお部屋はいつも鍵が閉められています。
上下についた2つのノブをタイミング良く回せた時だけ、扉が開くそうで、校長もほとんど開けられたことがないそうです。今回ナビ一向の代表が開けてみると…あっけなく成功!ということで特別に中を拝見しちゃいました。
本棚や靴箱、その奥に浴室とトイレ…。質素な暮らしぶりが見て取れます。
4階に到着すると想像していたよりもかなりシンプルな教会がありました。
教会前や教会の中のコンクリートの壁には大小様々な穴が開けられていて、そこから差し込む光がキラキラと輝いています。多くの教会にあるようにこちらにもステンドグラスが飾られてあり、キリストが総督ピラトによって十字架刑の宣告を受け、埋葬されるまでを描いています。
「生きとし生けるものの輝きは無償の奉献と犠牲によってもたらす。このステンドグラスはそれを教えてくれていると思う」と藍校長は静かな語り口。キリストの教えを広めるだけに留まらず、このステンドグラスは教会内の照明問題も解決しているそうですよ。
イエスがエルサレムの婦人たちに語りかける場面
|
|
悲しむ母マリアと出会う場面
|
達興登建築士はこちら以外にも数多くの教会を手掛けましたが、ステンドグラスを作ったのはこちらのみ。そういう意味でも大きな価値があります。
椅子や床に反射する色とりどりの光
|
|
ステンドグラスが老朽化とともになくなってしまったそう
|
もうひとつ、原住民文化に影響を受けているという点も特徴的です。
一般的に教会には十字架に貼り付けられたキリスト像がありますが、ここにはありません。そのかわり両手を上げ歓迎を表す像があります。この像には原住民がお客さんをもてなすという考えに白冷會の精神、そして台東のシンプルな考えが融合されているそうで、ここだけでしか見られません。
教会には音響機器はありません。しかし、設計の関係で、舞台の上から歌うと声が響き渡ります。ちょっと聞いてみてください!と、藍校長自らご自慢ののどを披露してくださいました。
教会にいる人達が歌声に包みこまれるかのような優しい響きに心が温かくなりました。
後世の子供達に伝わる思い
飾りきれない賞状
錫質平神父が残してくれた教会。
藍校長は「伝えていきたい知識や人としての道理を教えてくれるだけでなく、学校に魂が宿る気がします。そしてこの教会があることで、子供たちが技術や知識だけでなく、人格形成にも役立っています」と力強く語ります。
実際、公東高工の生徒たちは世界技能競賽で16個の金メダル、国際發明展で20個の金メダルを獲得するなど数々の輝かしい記録を打ち立てて、その名を台湾中に轟かせています。
学問方面だけでなく、ナビがトイレでティッシュペーパーの手持ちがなくて困っていると、どうぞと自分の分を分けてくれるなど、その優しい人柄にも触れられました。
釘等は一切使用しない椅子
|
|
アート!
|
卒業制作も超本格的! |
学生が作ったものだとは想像できません
漂流木を使った椅子。両親が喧嘩した時に使用する椅子だそうです
|
|
台東駅、鹿野駅、關山駅、池上駅、玉里駅、花蓮駅、太麻里駅などに置かれている本棚もこちらの生徒作
|
ナビはキリスト教徒ではありません。しかし、ここに来てみて心打たれるものがありました。
宗教にかかわらず、台東を愛し、自分の人生すべてをかけて学校と教会を作った錫質平神父の偉大さに感動せずにはいられないはず。