台湾野球の根っこを作ったといわれる紅葉少年野球チーム、その記念館に行ってきました
延平郷の入口には、紅葉少年とブヌン族の八部和音を歌う像があります
紀念館に着きました~
こんにちは、台北ナビです。
まず、台湾の紙幣500元札を見てみましょう。表は野球少年たち11人が飛び上がって歓喜している様子と裏には大覇尖山(3505m)をバックにした台湾産の梅花鹿と竹が描かれています。この表の絵柄のモデルになったのが、1968年にリトルリーグワールドシリーズで世界チャンピオンを制した日本関西少年野球リーグの和歌山チームを、7対0で破った台東県の原住民ブヌン族の子達の「紅葉少年」野球チーム。
台湾の人たちの野球への関心は、この試合がきっかけとなったと言われています。翌1969年、台湾を代表する少年野球チーム「中華民國台中金龍隊」は、リトルリーグにエース郭源治を擁して世界チャンピオンになりました。
この名誉ある優勝で、台湾の『少年野球』ブームはますます熱を帯びてきました。それから2011年までの間に、台湾の少年たちはリトルルーグで17回優勝、準優勝3回という輝かしい成績を修めてきています。
紀念館前には、和歌山チームとの試合の像があります
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かつて野球少年たちが練習していたグラウンド、今はきれいに整備されています
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よく見ると、男の子の胸にはJAPANという文字が!
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紀念館裏には、バッテングでタイヤを括り付けた樹木に思い出が記されています
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紅葉國小(小学校)
ここを渡ってきます
「紅葉少年」チームが属する紅葉國小は、台東県西北部の延平鄉に位置するブヌン族の村・紅葉村にあり、その名のとおり秋になると、紅葉で美しく彩られる山中の村なのです。当時も今も子供たちは皆ブヌン族の子達。2012年全校生徒数は、当時の100人足らずから更に減り、その半分くらい。とうもろこし栽培が中心の農業で生計を立てている家庭が多いため、人口は減っていくばかりです。山中の大きな川に掛かる真っ赤な「紅葉橋」を渡ると、学校までは1本のクネクネと曲がった山道で、途中紅葉温泉の源泉地の横を通ります。かつて栄えたこの温泉行楽地は2009年の「八八水災」で破壊されてしまいました。現在は徐々に整備が進められています。
この紅葉橋を渡って、山道を登って行くとブヌン族の村があります
樹木全体を見ると、こんな感じです
「紅葉少年」野球チーム=台湾少年野球の父と呼ばれるのは、1963年「紅葉國小」に着任した林珠鵬校長。野球好きが高じ、当時紅葉村の幹事であった古義をボランティアコーチに招き、「紅葉少棒隊」(紅葉少年野球チーム)を結成しました。
練習は、早朝から1時間目が始まる前まで、休み時間、そして、放課後は暗くなるまで行われました。当時の苦しかった練習の様子は、紀念館裏手にある樹木に結び付けられたタイヤの跡から思い知ることが出来ます。
バッティングの練習に使われていたタイヤは、年月とともに樹木にのめり込み、やがて自分の体の一部と思った樹木に吸収され覆いつくされ、こんな姿になってしまっています。紀念館へ来た際は、館の真裏にあるので必ず見てくださいね。
紀念館の中に入ってみましょう
こちらは必見
さて、同じ時代の日本人からすると、信じられないような当初の練習の様子は、紀念館内に入って正面の写真からも知ることが出来ます。写真の横には「以石為球,以竹當棒,不怕烈日,不畏狂風,不懼暴雨,刻苦耐勞,嚴守記律,百折不撓」と書かれていますが、この意味は、「石をボールとし、竹をバットとし、暑さも強風も暴風雨さえ恐れず、ひたすら練習に励み、規律に従い、挫折に屈しない不屈の精神をもつ」です。写真を見てみると、確かにバットは短いただの棒で、キャッチャーの子は素手で目をつぶっています。というのは、飛んでくるのは石。写真をよく見ると子供たちのおでこはちょっとボコボコしています。これは石が当たった痕だそうで、こうやってどんな石が飛んできても怪我しない頑強なおでこになっていくのだとか。皆着てる服もヨレヨレで、もちろん裸足。でも、色が黒いこの子達は小猿のようで、どの子からも打たれてもすぐ起き上がるような強さと敏捷さを見て取ることができます。
思わずナビも肩がすくみます
過酷な練習の成果もあって、1963年6月に行われた「第二回・縣長盃少棒賽」でチームは台東県での優勝を果たしました。その後1965年、林珠鵬校長調は他校へ転任、古義さんも鄉公所に勤務となり、紅葉少棒隊は新しく着任した胡學禮校長と邱慶成教師が監督することになりました。1965年から1968年の間、紅葉少棒隊は台湾各地へ遠征試合に出て、優勝を重ねていきます。
ボロボロのボールとボールと同じ大きさの使用された石!
中でも台湾国民の目を引いたのは、1968年8月25日の試合。その年のリトルリーグ世界選手権を制した日本関西少年野球リーグの和歌山チームが台北へ親善試合に来た際に、彼ら紅葉少棒隊が7-0で完封勝利。この試合の様子は、台湾のテレビで初めて放映された野球の試合だったこともあり、完封勝利した紅葉少棒隊に、台湾国民は歓喜。少年たちは英雄となりました。
当時の選手名ですが、台湾側は、(1)ファースト古進財,(2)セカンド胡福隆,(3)キャッチャー胡勇輝,(4)レフト王志仁,(5)ピッチャー胡武漢,(6)サード胡仙洲,(7)ショート古進炎,(8)ライト賴金木,(9)センター邱春光。日本側は(1)ライト野尺,(2)セカンド森滿,(3)センター杉本,(4)ショート清次,(5)ピッチャー高森,(6)サード肥後,(7)キャッチャー舞壽之,(8)フャースト石村,(9)レフト小川、となっています。
8月25日の試合で、紅葉國小の代表チームが台北へ来た時、全チームでグローブは10個+コーチの1個。シューズは9足。寄付してもらったバッティングヘルメット3個、ボール5個、バット3本という配備で、観衆の前に姿を現しました。
さて、この一勝によって、紅葉村という辺鄙な集落は、遠く海外にまで名を知られるようになりました。そして、台湾全土に野球ブームをもたらし、各地で野球チームが結成されました。その後、彼らの台湾野球界における貢献を記念し、1992年、地元有志によって紅葉國小の校内に「紅葉少年野球紀念館」が建てられたのです。 彼らの奇蹟は、1988年、「紅葉小巨人」という映画にもなりました。
自由に入ることができます
受付には誰もいなくて、DMもありません
建物は2F建てで、1Fには一代目の紅葉少年野球チームが所有した持ち物が陳列されています。破れたユニフォームや靴のほか、ボールやミット、バットなどの野球道具、受賞した数々の賞状やトロフィー、さらには当時の古い写真や新聞の切り抜きなど。さらに紅葉國小の活躍年表や現在活躍する原住民族出身の野球選手も紹介されています。2Fにはブヌン族の文物が並べられ、伝統文化と現況を説明しています。
この建物は学校が開いている時間帯は必ず開いています。ナビを連れて行ってくれた鹿鳴温泉酒店の黄さんによると、週末も開いているとのことですが、受け付けにはだ~れもいません。こんなにたくさんのトロフィーや歴史的に意義のあるものがたくさん展示されていながら、ナビたちがいた約1時間の間、だ~れも姿を見せませんでした。
誤解や刑罰
最初のコーチ古義さんが寄付した賞状
昔の賞状
さて、台湾国中が歓喜した8月25日の試合については、多くの陰謀や誤解があったとも言われています。国民党政府は「紅葉チーム」を「和歌山チーム」に何としてでも勝たせるため、ある軍事基地で一ヶ月訓練させたといわれています。しかし、グラウンドに上がってから、日本の少年野球は、彼らが接したことがない「軟式野球」だったということを知ったとか。また、紅葉チームも当時9人中7人がすでに中学校の年齢となっていたにも関わらず、後輩たちの名を名乗り代表チームとして出場しました。彼らの本名は以下。( )の中が出場時の名で、紀念館内では、もちろん本名で紹介されています。
ピッチャー:江萬行(胡武漢)。 キャッチャー:江紅輝(胡勇輝),余宏開。內野手:徐合源(古進財),余佑任(胡福隆),胡明澄(胡仙洲),古進炎。外野手:邱德聖(王志仁),賴金木,邱春光。
1969年になって、胡學禮校長、邱慶成コーチ、曾鎮東スタッフの3人は、偽造文書の作成と実行行使により、台東地方法院に懲役1年、執行猶予2年の判決を’受けました。山奥の全校生徒100人に満たない小学校では、野球人数も足りず、試合に出るためにとられた方法だったのですが、違法行為に関しては、厳しい判決が下されました。
その後
メディアが当時の紅葉隊の勇士たちを追跡したところ、多くの者は状況がよくなく、漁を獲って生活をしていたり、タクシーの運転手であったり、あるものはもうすでに他界していました。これについては国内でも多くの意見があって、もともと原住民の人たちは酒好きで昔から酒で身を持ち崩し、命を落とす人も少なくありませんでした。また、当時台湾国内でプロのスポーツ選手への認識が低かったため、優秀なスポーツ選手を政府が資金援助をしたりして育成してこなかったこと、よってその時代はプロの野球団が成立しなかったことなどがあります。
紀念館内には、民国88年(1999年)の当時の選手たちの状況が記されていますが、当時12,3歳だったとして、1999年は44,45歳ですが、13人中8人がすでに亡くなっています。やはり、長年の飲酒が原因で肝臓関係の病や交通事故、また肉体労働者として働いたことによる作業場での不慮の事故死など、多くは不幸な死を遂げています。しかし、彼らが残した子孫たちには、後々台湾のプロ野球チームで活躍していた選手もいました。
当時の選手たちと
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当時のポジション
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ピッチャーとキャッチャー、本名です
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生存されている人の方が少ないのです
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結果としては◎
多くの人が偽造事件や当時の選手たちの不幸な末期を知り、胸を痛めましたが、物資が乏しく苦しい時代において、彼らは台湾人みんなに勇気を与えてくれました。
そして、その美しい誤解は、多くの台湾少年たちを野球へと駆り立て、「石をボールとし、竹をバットとし、暑さにも強風にも暴風さえ恐れず、ひたすら練習に励み、規律を厳守し、挫折に屈しない不屈の精神をもつ」は、「紅葉精神」と言われ、野球少年の心の原点ともなったのです。この精神を胸に練習に励み、希望を持って頑張ってきた努力は、やがてリトルルーグで17回優勝、準優勝3回という功績も残し、やがては台湾プロ野球チームの組織編成にもつながっていき、さらに現在メジャーリーグで活躍する王建民や陳偉殷へと引き継がれているのです。
当時野球に明け暮れる少年時代を送った子供たちは、幸せな子供時代を送ったに違いありません。そして、紅葉の子供たちに勇気をもらい、夢を見させてもらった大人たちの数は、子供たち以上に多かったことでしょう!
感動的な写真です
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試合で感動をもらったお詫びに台北の中和市から20万円の寄付金と書かれています
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「紅葉精神」ここにあり
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初めて「リトルリーグ」で優勝したときのユニフォームもありました
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あれから、37年後,台東縣體育發展基金會と中華民國棒球協會が主催となって、「2005紅葉盃國際少棒邀請賽」(紅葉国際少年野球親善試合)を2005年8月23日に台東で行い、台湾、日本、香港などから12の少年チームが参加しました。残念ながらその当時の「紅葉國小」には野球チームがなく、台東県のほかの小学校の選手たちから編成された「紅葉聯隊」(紅葉聨合チーム)として、参加しました。また、1968年当時の選手だった江紅輝さん、胡明澄さん、邱春光さん、江元興さんと当時日本チームでピッチャーとして投げた神田岡志さんが来賓として出席し、この大会で榮譽獎(名誉賞)の賞牌を与えられました。「紅葉盃國際少棒邀請賽」はその後も継続され、2012年には、36の少年野球チームと8つの青少年野球選チームが応募し、空前の盛況の中8月4日から8月10日まで、台東県の卑南國中や台東県立ソフトボール場、第二野球場に分かれて試合が行われました。
ナビが思うのは、日本ではこのような事件があったら、選手たちは一生汚名を背負って生きていかなければならないでしょう。しかし、台湾では、いい夢を見させてもらったから、過ぎたことはもういいではないかというような、いい意味での懐の深さと人を許せる心、寛容さがあります。
2012年で8回目の「紅葉盃國際少棒邀請賽」。「紅葉精神」が引き継がれた少年野球試合、これからもずっと長く続いていってほしいですね。
台北ナビがおとどけしました。