隠れ家のような博物館とカフェ、その正体は、日本時代の面影をいまに伝える、ルネッサンス式の趣たっぷりの校舎でした
こんにちは、台北ナビです!
そこかしこに日本の面影が残る台北の街並み。台湾を訪れる人々に印象を尋ねると、一様に「懐かしい」と答えが帰ってくるのもうなづけます。
最近では、そんな日本時代の遺構が博物館やカフェ、レストランなどに生まれ変わり、今も私たちを学ばせたり、楽しませたりしてくれます。
台北には国立故宮博物院や国立台湾博物館など、ぜひ一度は足をのばしたい博物館が点在していますが、今日はまだあまり知られていない穴場の博物館をご紹介しましょう。
隠れ家へごあんなーい
仁愛路側からはこの建物を目印に
今日お邪魔したのは、国立台湾大学医学院。医学院のキャンパス内にある「台大医学人文博物館」がお目当てなのです。
MRT淡水線の「台大医院」駅を出ると目の前にはどーんとそびえる台湾大学付属病院のビル。その傍に、医学院のキャンパスがあります。仁愛路沿いを少し歩くと、近代的なビルのような校舎の隣にその博物館はありました。博物館の建物だけを見ると、総統府などと同じように、どこか日本統治時代の面影を感じます。
それもそのはず、国立台湾大学医学院の前身は台北帝国大学ですが、付属病院は、台湾総督府台北医院 → 台北帝国大学医学院付属病院、そして戦後の台大医院と長い歴史を誇っています。
時代とともに歩んだ悠久の歴史
今回訪れた「台大医学人文博物館」の建物も、もともとは台北帝国大学医学院の校舎のひとつ。1907年の建築で、設計者は当時、台湾総督府営繕課に勤務していた近藤十郎。台北帝大付属病院や、現在は紅楼と呼ばれて親しまれている西門町の「八角堂」の設計者としても知られています。台湾総督府や台北帝大付属病院の建築がどことなくバロック式の東京駅に似通ってると思われる方もいらっしゃるかもしれません。それもそのはず、これらの建物の設計者はみな、東京駅を設計した名建築家、辰野金吾の流れを汲む、いわば弟子たちなのです。
近藤十郎氏が設計したこちらの博物館は、バロック式ではなく、ルネッサンス式のため、赤レンガ建築とはちょっと趣が異なります。
クリーム色の外観の建物の裏には、グリーンの絨毯を敷き詰めたような中庭が広がっていて、まるで映画のワンシーンに出て来そう。実際、過去幾度もドラマや映画の撮影に使われたそうです(F4のジェリー主演「ザ・ホスピラル」のドラマです)。仁愛路沿いからは中庭が見えないので、訪れる人も少なく、雰囲気のある写真を撮るには絶好のポイントかもしれませんね。
でも、この外壁にはちょっと秘密があります。実は、この外壁は講堂として使われていた建物の内側の壁で、この中庭はもともと中庭だったのではなく、講堂が撤去された跡地だったのです。
今日、案内してくれた館長の柯明勳さんによれば、この校舎も、近代化の波によって取り壊しの危機が何度か訪れたそうです。しかし、当時の医学院長や校友の「医学院が発展してきた歴史の足跡を残すべき」という提議によって、歴史建築としての保存が決まり、後に「台大医学人文博物館」として再出発することが決まったとか。
数年間の補修を経て、博物館として公開されたのは昨年から。いわば生まれたての博物館というわけです。
博物館正面を入るとすぐに広がる吹き抜けのロビーは天井が高く、精細な彫刻が施されています。
周囲には台湾の医学に発展した先人たちの胸像が置かれ、やはりここは学問をする場の一角だということを再認識させてくれます。また、大理石のロビーにはピアノも置かれていて、月に数度は音楽会や講演会などにも使われているのだとか。
※ナビは今回特別に許可をいただき写真撮影をしましたが、館内は全面撮影禁止となっております。ご注意ください。
興味津々できょろきょろしているナビに、館長さんが「いいものを見せてあげる」と小部屋の扉を開けてくれました。そこに展示されているのは、この医学院が歩んできた歴史。医学院の源流は、1897年に設立された医療講習所。翌年には正式に「台湾総統府医学校」として発足しました。さらに、1936年には台北帝国大学医学部と改組されていきます。
壁面には台湾の衛生や医学の発展に貢献した先人たちのパネルが展示されています。この中の一人の人物にご注目。第3代の医学部長を務めた森於菟(もりおと)は、かの文豪、森鴎外のご子息です。森鴎外自身も日本が台湾を領有した際に軍医として同行し、北白川宮能久親王の最期を看取ったことでも知られています。しかし、親子で台湾の医学に縁があったとは知りませんでした。
台湾総督府医院長を務めた高木友枝
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第3代医学部長を務めたのは森於菟
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医学の世界では、日本の統治時代を経て台湾の衛生や医学が大きく飛躍したと評価されています。それには、インフラがまだ整わない時代から、この台湾の地で懸命に医学に貢献した人々の姿があったことがわかります。
この博物館は、建物そのものにも見る価値大。とはいっても、やはり博物館の展示も大事です。それでは館内の見学に出かけましょう。
医学に貢献した先人たち
まずは台湾の医学や衛生に重要な貢献をした人々の展示から。
政府が上下水道整備のために招聘したイギリス人のウィリアム・バルトンは、台湾での水道整備に貢献。しかし、その途半ばで自らも疫病に倒れてしまいます。その後を継いだのが、東京帝大でバルトンの教え子だった濱野弥四郎で、彼の尽力により、台湾の上下水道が完成したといっても過言ではありません。
後藤新平は第3代の児玉源太郎総督のもとで民政長官を務めました。もともと医師だった後藤は、当時まだ台湾に蔓延していたアヘンに対し、いきなり禁止するようなことはせず、免許制を導入して政府が管理することで徐々にアヘン患者を減らすことに成功しました。
また、日本内地の習慣や文化を台湾にそのまま導入しても台湾の人々には適合しない部分もあることから、台湾の風習を尊重した政策によって台湾統治の安定に成功しました。
杜聡明は、日本時代の台湾に生まれ、京都大学医学部で博士号を取得。台湾で初めての医学博士となりました。戦後は国立台湾大学医学院教授などを歴任したあと、高雄医学大学の設立にも貢献し、戦後台湾医学の発展に大きく寄与しています。
王金河は、台南で発生していたいわゆる「鳥脚病」の発見と治療に大きく貢献した人物です。奇しくも、こちらの博物館を取材に訪れる数日前、明治学院大学から名誉博士号が贈られたというニュースが飛び込んできたばかりです。
常設展示
常設展示の部分は大きく「台湾人と病気との戦い」「生命の誕生」「台湾人はどこから来たか」のパートに分かれています。
まずは「台湾人と病気との戦い」から。台湾の医学の発展は日本時代に始まりました。日本は領台当初からペストやマラリアなどの疫病に悩まされました。記録によれば、地元民の抵抗による戦死者よりも戦病死者の数のほうが上回っているほどです。そこで、政府は台湾の衛生向上やインフラ整備のため、上下水道を整備したり、病院の建設や医療技術の導入を行ったことで、台湾の医療水準や衛生は飛躍的に向上しました。
また、台北帝大医学部のように医療教育にも力を注ぎ、台湾の人々にも医学への道を開き、多くの台湾人医師が生まれました。「台湾人と病気との戦い」では、日本時代の医学教育に使われた教科書をはじめ、多くの書籍が展示されています。また、戦後まもなく使われていた医療器具なども展示されていて、先人たちがいかにして病に打ち勝つための努力を払ってきたかが偲ばれます。
ところで現代台湾の死亡原因のトップはなんだと思いますか?1位はやはり日本と同じく悪性腫瘍、つまり癌ですね。戦後まもなくは肺炎や脳出血などが上位を占めてきましたが、医療技術の進歩により、その死亡率は年々下がってきています。しかしそのかわりに増加しているのが自殺です。医療の発展で以前なら救えなかった命が救われるようになった反面、自ら命を絶ってしまうことが増えているのは残念ですね。
生命の誕生
さすがに医学院が開設している博物館らしく、生命誕生の神秘を学べるのがこちらの展示室。ところで、日本では「出生率の低下」が大きなニュースになっていますよね。女性が一生に産む子供の平均数が1.3前後だとか。ところが、ここ台湾では日本どころの比じゃありません。もうすでに出生率が1を切っているんです!つまり、子供を産まない女性がどんどん増えているということになります。日本でも晩婚化や結婚しない若者の増加が指摘されていますが、台湾でも悩みは同じ。子供どころか結婚もしていないナビは耳が痛いです(カメラ担当のナビ子も同じ)。
「台湾人はどこから来たか」、この問いに答えるのは単純ではありません。現在の台湾だけを見ても、数百年前から台湾に住み着いている原住民、大陸から渡ってきた本省人と呼ばれる人々や客家人、戦後に中国からやって来た外省人に加え、嫁不足のあおりか、東南アジアからお嫁に来た女性たちなど、まさにアジアのサラダボウル。
これらの人々がいわばみな台湾人なのですが、数百年前をたどっていくと、主にこの島に居住していたのは、現在台湾では原住民と呼ばれる人々。古くは、環太平洋エリアから北上してきて台湾にたどり着いたとされてきましたが、近年の研究では、むしろ台湾から南下して環太平洋の島々に散らばっていったという説が有力となっています(最新の研究では、さらに北上して中国大陸がその起源だとも言われています)。
そして原住民の人々と、大陸から渡ってきた人々が通婚を繰り返して現在の台湾人の原型になったとされており、さらに客家人や外省人の人々がより多様化させています。こうした古くからのいわば移民社会が台湾の他者に対する寛容性を育んできたともいえます。慣れない者同士だから仲良くしましょうということかもしれません。
特別展
薬学界に大きく貢献した孫雲燾教授は生前、薬学に関係あるデザインの切手をコレクションしていました。その膨大なコレクションは死後、こちらの博物館へと寄贈され、切手を通じて薬学や公衆衛生の発展を見ることが出来るようになっています。
※こちらの展示は現在すでに終了しています
医学と蛇は密接な関係があります。アメリカの救急車などにデザインされている、杖に巻きついた蛇は「アスクレピオスの杖」と呼ばれ、ギリシア神話に登場する名医アスクレーピオスの持っていた杖がその起源です。現在では、医療や医学の象徴として広く用いられていて、台湾大学医学院のシンボルにも描かれています。
さらに、日本時代の台北帝大は毒蛇の研究が盛んに行われていました。これは、戦前から戦中にかけて日本が南進する際の前線基地として台湾が位置づけられていたからで、現在でも台湾大学は毒蛇研究の権威として知られています。
※こちらの「台大医学院と毒蛇研究」展はすでに終了しています
取材を終えて、建物の外に出ると、冬の台北には珍しく青空が広がっていました。クリーム色のルネッサンス式の壁と、近代的な医学院のビルがまるで新と旧の対比のように両立しています。
旅行中はなにかと忙しくなりがちですが、時にはどこか懐かしい空間でコーヒーを片手にほっと一息されてはいかがですか。
以上、台北ナビがお伝えしました。