台中市のシンボル湖水亭を有する美しい庭園式公園には、台湾の歴史を彩る様々なストーリーが秘められていました
こんにちは、台北ナビです。
台中市といえば台湾人の誰もが思い浮かべる名所、台中公園。広くてきれいな公園はただ散歩するだけでも気持ちがいいのですが、実は随所に日本と関わりの深いものがあるんです。解説付きで見てまわった台中公園は、現在の美しく整えられた山水とともに、台中がたどった歴史を知ることができる、とっても有意義なミニトリップを体験させてくれました。
現在の台中公園の正門は、公園路と自由路の交差点です
今回、ナビたちに興味深い逸話をたくさん教えてくれたのは、公園の真正面に位置する「福泰オレンジホテル」のマネージャー沈中祥さん。歴史や植物にとっても詳しいんです。
リスが遊び、人が憩う都会のオアシス
公園横のオレンジホテル
まずはオレンジホテルの向かいにある入り口から。
現在の正門は自由路と公園路の角ですが、昔はここ公園路沿いが正門だったそう。日本統治時代によく使われた磨石子(モルタル洗い出しの技法)の石柱や手すりなどが残っていて、時代を感じさせます。
左手の道を進むと、昔の写真を焼き付けたタイルが設置してあり、当時の台中公園の様子をいろいろ知ることができます。所どころ剥がされた痕があるのは、ちょっと残念。
突然木立の間から現れたのは台湾リスちゃん!あっちにもこっちにも出現して、かわいい~♪こんな大都会の公園なのに縦横無尽に走り回っていました。
日本統治時代につくられた公園
台中公園は1903年(明治36年)、当時の都市計画に沿って作られました。
沈さんのガイドで美しい日月湖に浮かぶ湖心亭を眺めながら、ボートハウスの横をとおり、樟脳(しょうのう)の大木の木立を抜けて、左手の奥、児童公園区へ。遊具などがありますが、ここの孫文の銅像のある場所、元は第4代台湾総督児玉源太郎の像が立っていたそうです。
孫文の銅像があるところが、昔児玉源次郎像でした
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現在は児童公園
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日本統治時代の第一代台湾総督は、樺山資紀。2代目は後の首相・桂太郎、3代目は陸軍大将・乃木希典。1898年(明治31年)になって、児玉源太郎が4代目の台湾総督として着任しました。児玉総督は台湾で8年間就任。この時代に「民政長官」として赴任してきたのは、医学博士の後藤新平です。この2人コンビの時代に、台湾の行政の基礎が築かれます。医療の大改善から始まり、建設や産業方面の近代化が急ピッチで行われました。道路の整備はもとより基隆から高雄を結ぶ南北縦貫鉄道の着工、高雄や基隆などの港の産業基盤も築かれました。後藤新平は、後に「台湾近代化の父」と台湾人から呼ばれますが、この成功は、児玉源太郎の度量なしには、成し得なかったといわれています。
余談:児玉源太郎の銅像は、かつて台北市内の敦化南路のロータリーにもありました。国民党時代になって、乗馬姿の彼の銅像を気に入った蒋介石が、首から上をなんと自分の像にすり替えたそうです。その結果、日本陸軍の軍服を着た蒋介石が出来上がり、表面では「反日」を唱えながら、日本軍人という滑稽な姿に台湾の人たちは笑いをこらえたそうな。
★児玉源太郎と後藤新平は、台湾の学校の歴史の授業で欠かせない人物ですが、それ以上に有名なのは八田與一です。烏山頭ダムと嘉南大圳の2つの建設を成し遂げた八田與一は、児玉総督が帰国して4年後の1910年、24歳で台湾の地を踏みました。
公園内からラジオ放送
昔住民に放送をする時には拡声器を使用していました。
その名残りがここに残されています。
いかにも国民党が作ったようですが
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屋根を見ると日本時代の名残が明らかに
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台中で一番高いところがここ
さらに奥に進むと小高い丘が。
「砲台山」といい、当時市内で一番高い場所だったとか。実はここに、測量の基点となった計測点の跡があります。台湾の測量の始まりはこの場所からだったんですって。こういう豆知識を知ると、とっても面白いですね。丘の頂上には大きなジャワ合歓の木と記念碑が。「抗日忠勇将士民衆記念碑」と書かれていました。でも日本統治時代には台、中で物故した日本人の碑だったそうです。今は皮肉なことに「抗日」…。こういうところにも台湾が経てきた時代を感じます。
この中にもうひとつ
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当時の測量の跡が残されていました
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清朝から日本時代、現代へ
砲台山の反対側を下りていくと、人工の滝と山水になっていました。日本庭園みたい。
遠くには大きな銀色の山羊の像が見えました。これはヒツジ年のランタンフェスティバルで使われた金属製のシンボルで、この公園に安置されました。「三羊開泰」という縁起のいいことばを表すのだそう。
台湾の過去と現在が交錯する台中公園
望月亭でのほほえましいカップル
植えられた様々な花や木の間を歩いていくうちに、また小さな丘の上に建造物が。この「望月亭」は、清朝の台湾府城北門建築物を移構したもの。唯一清朝のものという額がかけてあります。「曲奏迎神」とは音楽で災いをなす霊などを鎮めた、という故事から。
柱などにいろいろ絵が描いてありますが、面白いのは修復に携わった職人さんが、自分の名前と電話番号まで入れちゃっていること。当時は文化財保護の観念は薄かったようで…、電話番号のケタ数に時代を感じます。沈さんによると「全部で5つも入っているんだよ~。」ですって。
近くにある「更楼」は外敵を見張る塔のこと。
公園を作る時に土地を寄付した台中の名士「呉鸞旂」氏の住宅からの移築だそうです。残念ながら一部剥がれ(剥がされ?)ていますが、昔の美しい飾りタイルを見ることができます。
台中神社の面影
「更楼」のすぐそばに、日本統治時代の台中神社の跡があります。石灯籠の土台が残り、寄進した日本の会社や日本人個人の名前が刻まれていました。本殿があったところには現在、孔子の像がたっています。手前には神馬の像があり、これも当時時代のもので、どこからか持ってきて後から置かれたそう。よく見ると日本の家紋のようなもの、葵?がついていました。
神社へ向かう両側の石碑一つに帝国製糖株式會社の文字が刻まれていました。裏を見ると明治43年10月20日設立。児玉・後藤の時代、総督府技師として着任したのが、5000円札でおなじみの新渡戸稲造でした。彼はサトウキビの品種改良などを行い、台湾の製糖業に力を注ぎました。その結果台湾の砂糖の生産量を5年後には2倍に成長させます。その後も製糖業はどんどん発展し、1960年代まで台湾経済を支えてきました。台湾各地にその跡は残され、高雄橋頭製糖工場(高雄市)のように一部は観光地として再建されています。帝国製糖株式會社は現在の「台糖」の前身です。
残ったものは残されています
狛犬もいます
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りっぱな馬が2頭
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ライオンズクラブの信条
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中央に構えるは孔子様
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神社といえば鳥居ですが、これも残されています。
さすがに立ち姿ではなく地面に倒れた形でした。周囲には中国風の石馬なども配置されて、とても不思議な感じです。さながら「ストーンヘイジ」のよう?
寝てしまった鳥居というのはあまりないのでは…
台湾八景のひとつ湖心亭
さて、最後はなんといっても、台中市のシンボルである「湖心亭」に向かいましょう。
日月湖にかかる日本風の赤い橋を渡ると、かわいい建物が間近に。この優美な欧風建築の湖心亭は、1908年(明治41年)、当時台中を訪れた皇族の休憩所として作られました。現在まで何度も修復を繰り返し、今の外観がいちばん建設当時に近いんだそうです。
のどかです
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高知のはりまや橋みたい
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日本語もあります
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湖畔に浮かぶ亭
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中に入ると、湖面から涼しい風が吹いてきて、とてもいい感じ。古いガラス窓には日本家屋の趣があります。天井の四隅にある梅の飾りは、中華民国のシンボルとして、修復の時に入れられたものだそうです。
湖心亭開放時間 6:00~22:00
正門から見た「湖心亭」
入ってみましょう!
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梅の模様が見えますか?日本風でもありますよね!
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ちょうど噴水が上がりました~
公園の中をぐるっとまわって40分くらいでしょうか。元の場所にもどってきました。
作られた当時から台中の人々に愛されてきた台中公園。今でも日月湖でボートに乗ることはカップルの定番とか。1時間おきに高く上がる噴水、遊ぶ水鳥、木陰で台湾将棋を楽しむ老人たち。台中市民の憩いの場として、親しまれ続けていることを十分に感じました。
以上、台北ナビがお届けしました。