台湾南部に残された日本統治時代に作られた軍官宿舎が残る町
こんにちは、台北ナビです。今日は台湾南部の街・東港にある『共和新村』にやってきています。高雄から車に乗って約45分で辿りつく共和新村。日本統治時代の1938年に、日本海軍航空隊の軍官の官舎として建築されました。現在もその姿を残し、住んでいらっしゃる方もいらっしゃいます。台湾で大切に残されている日本の建築を、今回この地に詳しい王立皓さんに案内していただき、じっくりと見て行きたいと思います。
まずは歴史から…
1938年、日本海軍は大鵬灣に海軍航空隊を設置しました。当時ここは一面の埋め立て地でした。日本海軍は大鵬灣から砂を集めこの土地を整備し、12万平方メートルもの面積に日本式の官舎を台湾の方の労力を使って作りました。エリアによって住む軍官の等級が決められており、一戸建ての家が作られ、広々と心地よい住み心地だったそうです。官舎は等級毎ごとに「甲・乙・丙・丁・戊・バラックエリア」と分けられていました。この時にここの電力設備、下水道の排水システム、上水システムを構築しました。実は東港も八八水災の被害に遭い、洪水が起こりましたが、共和新村だけは水に浸ることなく済んだのです。これは排水機能が素晴らしかったために免れたことらしく、日本の技術は素晴らしい!とおっしゃっていました。ここには今54戸の家が保存状態も良く残されています。これはとても貴重なことなんです。
共和新村を守るため…
今回ナビ一向を案内していただいた王立皓さん。パイワン族の母と中国から共和新村に長期滞在していた父の関係で、この共和新村には特別な思い入れがあります。台北で写真家兼武術家として活躍していたのですが、2002年共和新村改築案が出されたことを知り、東港へ戻ると「灰瓦曆眷村文史工作室」を成立し、共和新村の歴史と文化背景を深く研究し始めました。
素敵ご夫婦劉さんの家
劉さん夫婦
共和里(街)59号は劉さんの家。ここは「丁等」の官舎の中で一番保存状態の良い家だと言われています。劉さんは御歳86歳!しっかりとした語り口から、以前空軍幼校の教官に就いており、電子・機械・化学などを教えてらしたことがうかがえます。そんな劉さんが快くお家の中を見せてくれるとおっしゃってくださったので、ナビ一行も早速中へ入りました!まず入ったのがお庭にある見事な桂花の樹。樹齢40~50年というから驚きです。キレイだろ~?とおっしゃる表情からこの樹を大切に大切に育ててきたんだなぁということが感じられます。家の外観に目を向けると外壁の床下には換気孔もありました。玄関には日本式住宅と同じように段差があり、家の中を砂や埃から守っています。
家に上がらせていただくと、歴史を重ねた板床が足の裏に心地いい!実は建築当初は日本と同じように畳が敷き詰められていた客間。しかし、風通しの良い日本式建築も台湾の湿気と太陽の強さには負けてしまったそうで、板張りにしました。その時の面影が段差となって残っていました。玄関左を見ると床の間もありましたが、掛け軸は掛けられているものの、テレビ置き場になっていました。日本式建築を自分の生活に合わせているんですね。劉さんは「物が多いだけの家ですよ…」とおっしゃっていたのですが、掃除が行き届いた素敵な家でした。72年前の家でも大切に使えば心地よく生活できるんだなぁとナビは感動してしまいました。
最後に、ナビが日本人であることを伝えると、「よく来てくれたね~、日本建築はとてもいい建物よ!また次来る機会があったら私特製の冷麺と台湾ウィンナーを食べてね。」とおっしゃってくださいました。実は奥さまが作る台湾冷麺はおいしいと有名なのです。次来た時も必ずあいさつしに伺います!
この低い門が残っているのも劉さんのお家だけ
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玄関の文字は右から書いてあります
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身長が高い方は頭をうってしまいそうな鴨居。趣きがあります!
畳を敷いていたのでこの段差!
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天井は貼り直したそうです
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たったひとつの「消火栓」
続いて連れて来てくれたのは消火栓。いや、ただの消火栓でしょ?と思っていたのですが、周りの台湾の方達は興奮している様子。説明を聞いてみると、台湾の消火栓は『消防栓』と書くのです。これも日本式なのですね!よく見てみると消火栓の上に何やらマークが!下は錨を、上は水を表しており、海軍のマークなんだそうです。共和新村内にはいくつか消火栓が残っているのですが、このマークが残っているのはこれだけなのです。
共和新村には台湾で唯一無二、日本国旗が描かれている廟があります。台湾民間信仰に篤い羅さん、共和新村へ引っ越してきてから自分の家の前に土地廟を建てました。土地廟はちょうど日本統治時代に作られた防空壕(羅さんの家の横)の前方に建てられたのですが、建てられた後ちょっとしてから夢を見るようになりました。夢の中では海軍の兵士がどうやら日本語で話しかけてきます。この夢を何度も見るようになったある日、兵士が羅さんに「保○」という文字を書いてきました。しかし、識字教育をきちんと受けていない羅さんは、○の文字がどうしても思い出せず、夢の中の僅かな記憶を頼りにいくつか文字を書き、擲筊(廟にある赤い三日月の形をしたものを使用し神様にお伺いを立てること)をしてどの文字なのかを聞きました。その結果「保箑」という2文字だということがわかりました。この日本軍兵士の魂は台湾から離れたくない!と言っていたのだそうです。そこで羅さんはその兵士を『保箑大將軍』と祀るためもうひとつ土地廟を建てました。その兵士のために日本国旗を描き、日本軍歌のカセットテープを毎日流していました。息子さんも毎日というわけにはいかないものの、お参りをしてくださっているそうです。
羅さんが建てた「無極慈母宮」は『保箑大將軍』が祭られている横にあります
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兵士の声は防空壕から聞こえたそうで、今も『保箑大將軍』の後ろにあります
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日本海軍航空隊が使っていた飛行船の模型を探しだしたそうです
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台湾で売られていた日本軍歌カセット
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共和新村の象徴といわれているのがここ。亀型の防空壕と椰子の木、低い塀が並ぶ路が日本統治時代の台湾の姿を留めているように感じました。しかし、現存している家は少なくなり、過去には共和新村を改築しようという動きもありました。それにも負けずこの様な姿が残っているというのは住民や近所の方の運動のおかげです。アメリカ軍の攻撃により爆破されたり、それから免れるため家の半分を自ら壊すなどして奇跡的に残った家々。そこに住み続けてくださる方々。様々な思いが詰まった共和新村は日本人にとっても重要な街だといえます。
今回縁あって共和新村を訪れることができました。台北から2時間半ほどで訪れることのできる共和新村。ナビは時間の関係上、一部分しか見られなかったのですが、時間を見つけてもう一度見つめたい、そう強く思いました。
以上、台北ナビでした。