「東方芸術の殿堂」と呼ばれるこの廟、じつは再建の1947年から現在まで未だ建設途中なのです。
こんにちは、台北ナビです。海外旅行が趣味だったり、建築物に詳しい方なら、スペインにあるガウディの代表作「サグラド・ファミリア」については、ご存知でしょう。信仰篤いガウディが自分の半生をかけて設計・建設を行ったこの美の聖堂はいまや、ユネスコの世界遺産にも登録されています。しかし、ガウディの急死により、建設は一旦中止され、話し合いの末、現在は別の当代建築家たちが、ガウディの構想を推測するという形でその建築を続行させています。
実は、台湾にも似たような廟があるのです。今日は「東方芸術の殿堂」と呼ばれている廟「三峡清水厳祖師廟」をご紹介しましょう。
新北市三峡にある清水厳祖師廟は、17世紀、大陸からの移民(多くが客家人)によって創建され、この地域「三峡」の信仰の中心として、現在にわたって人々に愛され守られ続けてきました。荘厳に聳え立つ廟ですが、実はこの廟は既に2度も損壊しています。一度目は1833年の大地震の際でした。そして第二回は、1899年、日本の統治に反対したこの地元民衆との戦いの際、日本軍の焦土作戦によって焼き払われました。その後民衆の資金で再建を果たしたのですが、半世紀もたつと傷みが目立ってきます。そのため、1947年に大々的な修復兼再建作業が始まりました。しかし、芸術性をとことん追求するこの廟の建設は、60年以上もたった現在も未だに「建設中」。2009年、現在130本の柱がありますが、将来的には156本になる予定。そのゆっくりと彩り鮮やかになる廟の姿に、生きている信仰を感じます。
1947年に三峡清水厳祖師廟の再建を担った人も、当時の有名な芸術家でした。名を「李樹梅」といいます。若い頃から台湾の美術界で頭角を現していた彼は、27歳の時、東京美術学校(今の日本国立東京芸術大学の前身)で写実画を研究しています。彼は自分の作品の中でも、特に「台湾」の原風景や農村・農民の姿をよく描いており、郷土への深い愛着がみてとれます。その祖国への愛情が、郷土である三峡での清水厳祖師廟の再建運動への大きな動機となっているのです。
終戦後、無事に台湾に帰還できたのは、やはり一重にこの地の神様「清水祖師」のご加護だと、信仰心と郷土愛の強い李樹梅は、シロアリに蝕まれていたこの清水厳祖師廟の再建を計画、最高責任者となりました。再建に当たり、かれは「新しい廟を民間芸術の殿堂とする」というポリシーを掲げ、台湾中から著名な芸術家を呼び、そして最高の材料を集めました。当時としては高級材料だったヒノキや樟脳に彫り彩られる仏像や獅子・製作に一本1000日はかかるといわれる百数本の石柱、更に金箔で彩られた天井、国連の平和の鐘にも似た鐘楼の鐘など、この空間全てに台湾の宗教芸術の美しさが色濃く凝縮されています。
これが、この廟のご本尊「清水祖師」です。彼は福建省の安渓の人々の間で信じられている神様で、その地域の人々が台湾のこの三峡へ移住したときに、やはり守護神としてこの廟に祭ったそうです
知らなければ、ボーっと歩き過ごしてしまう廟なのですが、説明を受けてみるとその壮大な計画に驚かされます。まず入口の石段、地面、壁、柱をはじめ基礎部分は全て石で作られています。柱の上の部分は木材で作られ、接着剤や釘を用いない、しっかりとした木組みで構造されています。
壁や殿堂に彩られるさまざまな彫刻は、それぞれの時代の「中国の歴史的伝説」を意味しています。よくよく観察すると「岳飛」「孔子と老子」「孟子」「仙女」などなど、それぞれにドラマチックなシーンが描かれ、見るものに訴えかけます。
廟の中央部分に、比較的ツルツルと彫刻の少ない柱が8本見えます。これは御影石の石柱で、じつは日本の石。さらに、この御影石は戦前、現在の圓山飯店の位置にあった「台湾神社(戦前の台湾での神道の総本山。日本で言う明治神宮のような場所)」の鳥居を転用したもの。空爆で倒れた鳥居を引き取って、改めて有名な彫刻家によって彫刻を施して、この祖師廟で使用しています。
この中殿の柱は、廟内でもっとも芸術性が高いといわれています。中央の2本は2匹の龍と仙人の戦いがテーマ。外側から2本目は鮮やかに花開く梅の花の上にとまる百羽の鳥の様子がテーマ。更にもっとも外側の柱は2匹の龍と36人の昔の軍人などが入り組む様子が、何層にもわたって精巧に克明に彫られています。