レトロブームに乗ってまたまた日本統治時代の家屋を利用したレストランが登場。居酒屋じゃなくて「居食屋」というだけあってフードにも自信あり!
こんにちは、台北ナビです。
台湾では現在ちょっとしたレトロブームです。
昨年、青田街にオープンした「青田七六」や台湾大学そばの「滴咖啡」、泰順街の「找到咖啡」など、日本統治時代の建物がリニューアルされてレストランやカフェなどに生まれ変わった姿を多く見掛けることができます。
これらの建物が多く集まっているのが、台北市の地図でいうと南のエリア。当時の台北帝国大学(現在の国立台湾大学)や台北高等学校(現在の国立台湾師範大学)があった文教地区でした。このエリアには、台北帝大の教職員のための宿舎が数多く建設され、戦後も台湾大学の教授に引き継がれて使われていました。教授は大学を定年退職後もその家に住む権利を有していて、終の棲家にする人も少なくなかったそうですが、家の主が世を去り、残された家族が家を離れたりして空き家になる例が増えていきました。温州街や泰順街など、このエリアの細道を一歩入ると、誰も住んでおらず、苔むして朽ちていくままに任せた日本家屋がいくつも目に入ります。
どうせなら、誰かに貸すとか売りに出せばいいのに、などとナビは考えるのですが、もともと国立大学の所有物=国有財産のため、簡単には処分することも出来ず、放置されているのが現状のようです。
こうした状況に風穴を開けたのが、以前にナビでもご紹介した青田街のレストラン「青田七六」でしょう。家屋を管理していた台北市政府から、「黄金種子文化事業有限公司」が使用権を得てオープンした日本家屋のレストランは連日大人気。現在でも週末の夜は予約が必要なほどだそうです。
居酒屋ではなく居食屋です!
実は今日お邪魔する「野草居食屋」をプロデュースしたのも「青田七六」と同じ会社。家屋の復元、保存、家屋にまつわる歴史の検証などには折紙つきですから期待も高まります。
訪れたスポットは、MRT「古亭」駅から西へ徒歩5分。注意して歩かないと見逃してしまいそうな路地の片隅にありました。
ただいまーと入りたくなるような門構え
門を入り、玄関をガラガラー。「青田七六」を取材した際に案内してくれた時と同じ、楊新淇さんがお出迎え。
「おひさしぶり~」とナビのことを覚えていてくれました。
外観の出窓、石づくりの玄関はどう見ても“日本”。まるでタイムスリップしたかのようです。内部はもともとかなり朽ちていたものを大幅リニューアルしたそうですが、外部については幸いなことにあまり損傷はなかったため、元々の雰囲気を残すため、最小限の修復にとどめたそうです。
玄関を入った三和土には二段の階段。恐らく以前の家屋の場合はここで靴を脱いだのでしょう。現在ではリニューアルされているので靴のままでOKです。
ただ、ナビはちょっとこの階段に違和感を覚えました。むかーしむかし、おばあちゃんの家の玄関は上り框がもっと高くて、子供が落ちると危ないから玄関で遊ぶな、とよく言われたもの。そう、昔の日本家屋の上り框は背が高かったのです。そう言うと、楊さん曰く「その通り!本当は階段は一段しかなかったのだけど、ちょっと不便だったので段を一段増やしたのよ」とナビの第六感は大当たり!
玄関を入ると、左右に客席が配置され、左の奥にはカウンターや調理場を見渡すことができます。ふと天井を見上げると、以前の家屋の間取りを残す痕跡がかすかに。
廊下や寝室、客間や納戸など、おおよその見当がつくかもしれません。
この家の歴史
この家屋はもともと台北帝国大学の宿舎として建設されました。確かに周囲にはまだ似たような日本家屋が点在しています。
ただ、残念ながらリニューアルに際してかなり調査をしたそうですが、日本統治時代に誰が住んでいたのかまでは見つけることは出来ませんでした。
戦後は、台湾大学の教職員宿舎として引き継がれ、農業化学系(学部)の陳玉麟教授の住処となりました。陳教授は日本とも縁が深く、1942年に熊本大学薬学部を卒業、1959年には九州大学で博士号を取得するなど、特に農薬の研究については台湾における第一人者だったそうです。まだ台湾が貧しかった時代、庶民が自殺するのに一番手っ取り早し方法は農薬を飲むことでした。自殺者が出ると、そのたびに警察は陳教授のもとを訪ね、どの農薬が使われたのかを尋ねたそうです。
陳教授が世を去ると、この家は空き家となり、台北市政府が管理していましたが、国有財産の有効管理の一環として民間に貸し出されることになったのが「野草居食屋」誕生のきっかけというわけです。お店のオープンにあたり、家屋の中は全面的な改修が施されました。もとは畳敷きで襖が使われていた内部はほとんどをぶち抜きとし、フローリング調の木目床に変更。梁などは敢えて見せることで、元々の家屋の面影を残すとともに、斬新なデザインとなっています。また、田舎のおばあちゃんの家を彷彿とさせるガラス窓は当時のガラスそのもの。さらには、壁の一部をガラス貼りにすることで、漆喰の中の仕組みを見せる展示を兼ねています。
もうひとつのテーマ
ナビがやっぱり昔の家だなぁと感じたのは鴨居の低さ。ナビは背が高くないほうですが、それでもやっぱりもう少しで鴨居にぶつかってしまいそう。やはり昔の人は現代人より背が低かった証でしょうか。
ふと鴨居の上を見ると、模型の鉄道が並んでいます。そしてなにやらその下には駅名と思しき文字が。これが「野草居食屋」が提供するテーマのひとつ「萬新鉄路」です。
お店がある同安街のすぐ隣りには汀洲路が走っています。地図を見ると、龍山寺などで賑わう台北の下町である萬華から、台湾大学のある公館までほぼ真っすぐな汀洲路が西から南東へ向けて貫いています。この道は、日本統治時代の1921年(大正10年)に開通した「台北鉄道」、通称「萬新鉄道」の名残なのです。鉄道は、萬華を起点とし、公館を抜けて新店までの10.7キロを結んでいました。途中駅には馬場町や蛍橋、水源地など、地域の特色を盛り込んだ駅名が付けられ、沿線の庶民、特に台北帝大の学生や教職員にとって重要な足となっていました。台北帝大の開校は1928年(昭和3年)と、萬新鉄道の開業より後ですから、交通至便なこのエリアに宿舎が作られたというのも頷けます。
戦後も変わらず庶民の足として活躍していた萬新鉄道でしたが、それまで旅客輸送以上の収益をもたらしていた貨物輸送の割合が激減したこと、路線バスの拡充によって乗客数が減少したことなどから、1960年代に鉄道は廃止され、歴史の1ページとなりました。線路の後は汀洲路となり、公館付近で羅斯福路に接続し、新店まで続いています。現在では、沿線にわずかに残る小さな遺物を除けば、当時の面影を残すものはほとんどないといっても過言ではありません。しかし、萬新鉄道の思い出は日本統治時代から戦後を通じ、市井の人々の心の中に刻まれていることでしょう。野草居食屋では人々の思い出の中にある萬新鉄道をテーマのひとつに掲げているのです。
また、実はこのエリアは文教地区にほど近いだけでなく、日本統治時代には、新店渓が近いこともあって川遊びのメッカとしても知られていました。野草居食屋を出て5分も歩けば、日本時代の川端町を抜け、新店渓の河原へ出られます。
途中には台北一と謳われた料亭の「紀州庵川端支店」があり、屋形船を仕立てて川遊びをしたり、釣りをしたり、プール代わりに泳ぐなどの光景が見られました。また、紀州庵以外にも酒を出す料理屋が集まり賑わっていたようです。
そんな昔に思いを馳せながら、このお店自慢の「レモンビール」片手に料理を楽しむのもいいかもしれません。
そうです、お店の名前「野草居“食”屋」が示すとおり、このお店はただお酒を飲むだけでなく、食事にも自信満々。もちろん、お酒を飲まずに食事だけでもOKですし、みんなで飲んで楽しむのも大歓迎です。
「ビールの苦さがなくて飲みやすい!」と女性にも大評判なのがオリジナルの「レモンビール(160元)」。アサヒビールを主体に、レモン果汁を加えた一杯はスタートの一杯としても、酔っ払ってきた際の2杯目、3杯目にも最適。ちなみにレモンは二日酔いを防止する効果があるそうですよ(どんな効果があろうと飲み過ぎれば必ず酔いますのでご用心)。
お酒の品揃えもなかなか
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日本酒は陳教授が学んだ熊本にちなんで、熊本産をメインにセレクト
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そんなレモンビールとも相性がよく、ビールがなくてもスイスイ箸が進んじゃうお料理の数々をご紹介します。料理を仕切っているのはこちらの「大雄」。なんとニックネームはドラえもんに出てくるジャイアンと同じです。
「オーレはジャイアン~ガキ大将~」と、ガキ大将がそのまんま大人になったような風貌の大雄ですが、アニメの中のジャイアンと一緒で気は優しくて力持ち。今まで数々の日本料理店で修行してきた大雄のオススメ料理を聞きました。
サーモンのラー油特製ソースがけ(350元)。お刺身にラー油が合うなんて!と驚くほど相性抜群!
エビと野菜のゴマソース(180元)。プリプリのエビとシャキシャキ野菜に香ばしいゴマソースをたっぷりあえて。
大雄のイチオシ!豆腐乳の蒸し魚(180元)。
使われる魚はその日の入荷によって異なります。豆腐乳は辛いものと辛味なしのものを混ぜたオリジナルバージョン。深い味わいをどうぞ。
とんかつの梅ソースがけ(180元)。ヨーグルトを食べさせて育てた豚を使った肉厚とんかつ。
甘酸っぱい梅ソースとマヨネーズが意外にもマッチ!
水蓮と呼ばれるシャキシャキのお野菜。癖になる食感です(140元)。
肥腸串焼き(3本で140元)。臭みなどぜーんぜんなし!ぷにぷにでビールが進みそう!
最後のデザートまで手抜きなし!
大雄が最後に出してくれたのが「揚げもち」(一個35元)。
サクサクの表面に、中身は熱々でもちもち。最後のデザートまで大満足でした。
戦後数十年のときを経て、レストランに生まれ変わった日本家屋。まさか、後にレストランになるとは、家自身もここに住んだ人々も思いもよらなかったことでしょう。
レモンビールを傾けながらホッと一息。昔を偲ぶリラックスタイムをどうぞ。
以上、台北ナビがお送りしました。