60年以上を経た旅社、北門駅が栄えていた時の歴史を物語っています
こんにちは、台北ナビです。
日本統治時代、阿里山鉄道の始発駅は北門でした。
そのため、今では北門周辺にあった日本人が住んでいた宿舎や役場などの広範囲にわたる生活エリアが修復されたり復元されたりで、「檜意森活村」(ひのき村)という文化園区に生まれ変わっています。
林森東路を挟んで、その「檜意森活村」エリアの向かい側にあるのが本来の北門駅ですが、駅から一番近いところは旅社でした。旅社というのは、旅館よりも小規模な「簡易宿」。今の台湾では、旅社と聞くと、古びた小さな時代遅れの宿泊所のイメージですよね。それゆえ台北市内でも昔の旅社がリノベーションを施され、新しく生まれ変わっていますが、ここ「玉山旅社」は、その刻んできた歴史があまりに貴重なゆえ、名前は変えず、その風貌や仕組みも出来るだけ原型に忠実であるべく、2009年に修復された形で生まれ変わりました。
その歴史
元祖「玉山旅社」の持ち主は陳聡明さんという方で、陳さんは1907年に生まれ、1972年に65歳でお亡くなりになっています。生前は阿里山森林鉄道の列車長と北門駅の副駅長を務め、1950年に友人とこの場所に長屋風の建物を造りました。向かって一番左の、駅に一番近い建物が陳さんの住居で、退職後はここを玉山旅社として宿泊業を始めました。当時の北門駅は、阿里山ヒノキの集散地でもあったため、多くの人たちがこの界隈を行き来し、大変にぎわっていました。当然ながら一番の駅近である「玉山旅社」を利用する人は、とても多かったのです。
が、1982年に阿里山への道路が開通してから、北門駅は衰退の一途をたどっていきます。この開通による商売の大変化についてですが、ナビは以前奮起湖のお弁当屋さんからもあっという間に人がいなくなったんだよ、と聞いたことがありました。陳さんはやがて以前の部下であった方に旅社を転売します。そして、その方も次の方へ転売し、3代目の方も亡くなられ、2007年に「玉山旅社」の歴史は幕を閉じました。
が、2009年になって台湾各地で文化資産の保護活動が活発化しはじめ、築60年のこの建物も「洪雅文化協会」の余國信理事長が各方面に呼びかけ、建築物の保存、修繕、活性化にこぎつけることができたのです。現在この旅社の持ち主は3代目経営者のご親戚にあたり、管理は「洪雅書局」が行っています。
刻んできたもの
建物はヒノキ仕様であるため、骨格はしっかりしていますが、60年を越えた月日は人間と同じで、ところどころに衰えた箇所が見られます。今の時代、昔と同じ木材でというわけにもいかないのでしょう。ベニア材に取って代わっていたりして、皮膚にバンドエイドを貼ってるような痛々しい、ある意味満身創痍の感もありますが、それでも台湾の方たちがその歴史を重視し、大切に利用しているのは素晴らしいことだと思います。
1,2階はカフェ
飲み物は100元くらいからで、コーヒー豆はフェアトレードで、インドネシア産のものを使用しています。メニューの一番下には、古い建物の修繕費用として、お1人様1つは注文してください、とあります。ナビはラテをいただきました。インドネシアのGayoという山で採れた無農薬のコーヒー豆は、今まで飲んだコーヒーと比べると深みもあり、コーヒー豆そのものの味、大地の味がするようでした。入口や1階は、色々なものを展示したり、販売したりしているので、ゆっくり見てみてくださいね。中国語が分かる人には、カフェのスタッフが建物の紹介をしてくれるので、気軽にお声をかけてみてください。
2階は畳です
奥には日本時代、この近辺にあった商店や旅館のイエローページの一覧がありました。きちんと残していた方が寄贈してくれたものだそうです。当時の電話番号は3桁、ゑびす、ともゑなんていう店名や栄町、元町という通り名を見かけると、日本と同じですね。玉突場というのを発見、ビリヤード場です。カフエーヒノキというのがあり、今の時代もあったら行ってみたくなります。材木商や請負がかなり多いのは、嘉義ならではでしょう。
宿泊も可
旅社を復活させたこともあり、ここでは宿泊もできます。個室は平日400元、大部屋なら200元。驚くほどの優しい料金ですが、もし興味があるならば、料金と設備はほぼ比例の覚悟で宿泊してくださいね。無いものは朝食、冷房(!!!)、テレビ、などで、タオルや歯磨きなどは持参になります。バックパッカーや寝るところがあればいいという方々にはピッタリです。
「檜意森活村」はすぐのところで、ナビは文化路夜市までも歩いていったので、観光には便利な場所です。北門駅に行きたい人は、すぐ隣。30秒もかかりません。
以上、台北ナビでした。